*

忘れもの、ありませんか。



 

 

早朝の通勤ラッシュから逃れるようにして、駅のトイレに飛び込んだ。

 

 

急な便意が滝のような汗を噴き出させ、Yシャツの襟首をじんわりと濡らす。

 

 

やがて窮地を脱すると、喉の奥から言葉にならない安堵と快感の吐息が漏れた。

 

 

最近のトイレは洋式で助かる。しかもこの駅の場合はウォシュレットまでついているから、まさに天国である。

 

 

これが20年も前なら、勝手は違った。

 

 

トイレットペーパーは自販機で購入しなければならなかったし、すべての個室が和式だ。

 

 

トイレ内は当然のように不潔で悪臭が立ち込め、長年積み上げた尿石が便器を黄色くしている。

 

 

駅と公園のトイレだけはどうにか使わずに生活するのが、常になっていた。

 

 

その頃と比べると、随分と時代は変わったものだ。

 

 

しかし、それゆえの弊害もある。

 

 

個室の滞在時間が長くなった。

 

 

男子トイレでの個室が空かない時間も長いが、女性は特に深刻らしい。

 

 

ショッピングモールや観光地でもトイレに長蛇の列を作る女性たちにも見慣れてしまったほどだ。

 

 

快適になったが、時間を代償にしてしまった。

 

 

――と、こんな長考さえしても差し支えのないほど居心地がいい。

 

 

かくいう僕もまた、用が終わっているのにも関わらず便器に座ったままスマホをいじっていた。

 

 

「すみません」

 

 

唐突にドアの向こうから声がする。

 

 

誰に声をかけているのだろうと黙って様子を窺ってみるが、どこからも返事がない。

 

 

――もしかして僕に話しかけているのか?

 

 

まさか、と思いつつもうしばらく様子を窺う。

 

 

もしかしたら反応がないからと立ち去ったのかもしれない。

 

 

いや、「すみません」しか言っていないのだから、普通にぶつかりかけた人に向けて言っただけの可能性だってある。

 

 

むしろそちらのほうが可能性としては高いのではないか。

 

 

「すみません。中に入ってる方」

 

 

「え、はい?」

 

 

露骨に話しかけられ、反射的に僕は返事をしてしまった。

 

 

自分に向けられているという確証があったわけではなかったが、僕に話しかけている気がしたからだ。

 

 

「さっきそこの個室を使った者なのですが、忘れ物をしてしまいまして。トイレットペーパーの上になにかありませんか」

 

 

「ちょっと待ってください」

 

 

なんだ、忘れものか。

 

 

ノックもなしに話しかけられ少しだけ焦ってしまったが、なるほど忘れ物を取りに来ただけか。

 

 

そう思いながら言われた通りトイレットペーパーの上に設けられた小物置き用の平らな台を見た。

 

 

「……ええっと、なにもないですけど」

 

 

「本当ですか」

 

 

「ええ、なにもないです」

 

 

「そうですか」

 

 

ドアの向こうの男はそう言うと、礼も言わずに立ち去った。

 

 

いちいちムッとしたりはしないが、大事なものだったのかもしれないな。と少しだけ顔も見ていない男に同情した。

 

 

 

 

僕がそのトイレを再び利用したのは、ふたつの季節も過ぎた頃だった。

 

 

その日は出勤時ではなく、会社が終わった後に同僚と飲んだ帰り。

 

 

時計の針が一周するにはまだ余裕のある時間だった。

 

 

ついいつもよりも酒を飲むピッチを急いでしまい、駅に着いた時に腹を壊してしまったらしい。

 

 

まどろみの中にいるような、浮遊感が気持ちいい酔いの中で僕はまたスマホを触っていた。

 

 

最近、いい感じの後輩の女性社員とのメールに夢中だった。

 

 

「すみません」

 

 

「はい?」

 

 

不意にドアの向こうから声を掛けられ、返事をした。

 

 

自分に声がかけられているというのは、トイレに入った時点で誰もおらず、そして僕が個室に入った後に誰も入った気配がなかったのでわかった。

 

 

酔いのせいで、ドアの向こうに誰かが来たことに気づかなったことに疑問を抱かなかった。

 

 

「忘れ物をしてしまって。トイレットペーパーの上になにかありませんか」

 

 

「……ないなぁ。ないですよ」

 

 

間延びしたようなのんびりとしたような喋り方で僕は答えた。

 

 

「本当に? 本当にないですか」

 

 

「ないって。本当だよ」

 

 

「本当ですか」

 

 

「しつこいなぁ。嘘吐くわけないでしょうが」

 

 

ドアの向こうの気配は、無言のまま消えた。

 

 

不思議だが足音も聞いていないのに、いなくなったということだけはわかった。

 

 

翌日、酔いが覚めた後の僕はこの出来事のことをまるごと忘れた。

 

 

 

 

 

さらに月日は経った。

 

 

いい感じにしていた後輩社員とはうまくいかず、代わりに大学時代の友人の結婚式で知り合ったひとつ年上の女性と付き合うことになった。

 

 

僕は30歳を過ぎたところで、ささやかだが役職が付いた。

 

 

彼女と同棲話が持ち上がり、いよいよ結婚にもちゃんと向き合おうかという時、たまたま見つけたマンションの物件に惹かれた。

 

 

賃貸だが築年数は若く、間取りもいい。立地こそ少し駅から離れているが自転車に切り替えればむしろ今よりも通勤時間は短くできそうだ。

 

 

なにより僕と彼女、双方の都合がいい。これが決め手だった。

 

 

 

 

 

引っ越しが終わり、同棲が始まった。

 

 

彼女と僕はどちらも働いていて、お互いの休日が被るのは週に一度だったが苦にはならなかった。むしろそのくらいのほうが上手くいく秘訣のような気もする。

 

 

土曜日と日曜日が僕の休みで、平日一日と日曜日が彼女の休み。

 

 

日曜日は決まってふたりで過ごし、でかけた。

 

 

土曜日は週に一度、僕が自分のためだけに好きに使える日だ。

 

 

といっても、ひとりではどうしても出不精になる。土曜日といえば、すっかり家でごろごろ、一日中テレビや漫画、ゲームをして過ごすことが多かった。

 

 

僕も彼女もひとりでいる時間を大切にしたいと思っていたクチだ。

 

 

その日も日中は散々、ごろごろと堕落した生活を送っていた。

 

 

「……あれ?」

 

 

片方だけのピアスが置いてあるのに気づいたのは、夜の予定をどうするか漠然と考えていたトイレの中でだった。

 

 

トイレットペーパーの上に、小さなルビーが光るピアスが置いてあったのだ。

 

 

ひと目見て、彼女のものだとわかった。しかし、どうも違和感を覚える。

 

 

僕はピアスを開けていない。その上、これは女性ものだ。当然、消去法で残るのは彼女のみとなる。

 

 

だが彼女のものにしてはあまりに趣味と違うデザインのピアスだった。

 

 

彼女は派手過ぎない、ちょっとしたアクセントになるようなさりげないデザインのアクセサリを好んだ。

 

 

間違ってもこんな派手に輝く、ある種下品ともいえるピアスを持っているとは思えない。

 

 

もしかするともらいものなのかもしれないと思った。

 

 

――貰い物? 誰から?

 

 

ふとよぎるのは元カレの存在。もしくは彼女に言い寄る男の影。

 

 

どちらにせよ、僕にとっては好ましくない存在である。

 

 

急にイラッときた僕はルビーのピアスをトイレットペーパーに来るんで、ノズルをひねった。

 

 

濁流と共に勢いよくペーパーにくるまったピアスが流れてゆく。

 

 

その様を見て、僕はなんだか胸の引っ掛かりがすっと引いて行くのを感じた。

 

 

「すみません」

 

 

心臓が止まる。なんだ、今の声は。

 

 

「忘れ物をしたんですが、トイレットペーパーの上を見てもらえませんか」

 

 

――待て。ここは僕の家だぞ。

 

 

全身から血が抜けるような寒気と、ぷつぷつと点描のように沸き立つ鳥肌。

 

 

心臓は踊り、ドラムロールのような耳鳴りがうるさい。

 

 

「ルビーのピアスなんですが……あるはずなんです。みてください」

 

 

――ルビーのピアス? 馬鹿な、あれは彼女の……。

 

 

「入ってもいいですか」

 

 

「だめだ! 入ってくるな! ピアスなんてない、帰れ! 出ていけ!」

 

 

カラカラの口で叫んだせいか、最後のほうを掠れさせながら僕は叫んだ。

 

 

「えっ、本当ですか。本当にないんですか? おかしいなぁ」

 

 

その瞬間、思い出した。

 

 

僕はこの声を知っている。何度か、あの駅のトイレで聞いたあの声だ。

 

 

だが同時にあり得ないと、爆発するように僕は心の中で暴れた。

 

 

仮にあれが人とは違うなにかしらの存在だとして、もしそうだとしてもあれが現れたのはあの駅のトイレである。ここは僕の家で、駅とは関係がない。

 

 

それがなぜ、わざわざ僕の家に……。

 

 

「……本当ですか。本当かなぁ。信じられないんですが、ちょっと見せてもらっていいですか」

 

 

「よくない、帰れ! 帰ってくれ! なんで僕の家にいるんだ!」

 

 

「今から確認しに行きますので開けてください」

 

 

「やめろ! 開けないぞ! ふざけるな!!」

 

 

力まかせにがちゃがちゃとなんどもノブを回され、ドアを無理に開けようとしている。内鍵をしているため開くことはないが、烈しく押し引きされたドアは今にも枠からはじけ飛びそうだ。

 

 

「やめろ、やめろおお! なんだってんだ、お前はなんなんだよぉ!」

 

 

「忘れ物をしたんです! 忘れ物!」

 

 

開けて、開けて! とドアの向こうの男は声を裏返しながら何度も叫び、その度に僕は無理だと叫びながら全体重をドアに預けた。

 

 

やがて諦めたのか、ドアの向こうの男は静かになった。気配も感じない。

 

 

だからと言ってとてもじゃないが今すぐにドアを開けてやる気にもなれなかった。

 

 

「なんなんだよ、一体……」

 

 

たった今体験した不条理で訳の分からない恐怖。その余韻から冷めやらぬまま、不安と緊張から涙が滲んだ。

 

 

「あるじゃないですか、嘘つき」

 

 

「えっ……」

 

 

びりりっ!

 

 

耳元でなにかが力任せに裂かれる音がした。

 

 

いや、これは耳元というより耳で……違う、耳が……。

 

 

「うぎゃああああああ!!」

 

 

「これ、忘れ物なんです。今度は残っている方も取りに来ますね」

 

 

便器から伸びた青く細い、骨ばった腕が血で滴る僕の耳をプラプラと振りながら言った。

 

 

夜、僕は彼女の耳を両方引き千切り、それをジップ式のビニール袋に保管しカバンに入れると、その足のまま飛び出した。

 

 

長い旅になりそうだ。

 

 

 

 

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