【夜葬】 病の章 -8-
翌朝、鉄二が目を覚ますと隣にいたはずの女性の姿はなかった。
それどころか元々いた部屋の布団で目を覚ましたから余計に訳が分からない。
元はというと、部屋の鏡の前で寝癖を直しながら昨日のタバコの吸い殻を未練がましく根元まで吸っている。
「……父ちゃん」
「おう起きたか鉄二。俺もそろそろ起こしてやらなきゃなぁって思ってたところだ」
元は鉄二になにか問い質す様子もない。
本心はあの女性がどこにいったのかが気になった。
しかし、もしかすると昨日のあの出来事自体が夢だったような気もする。
「おかわり、ありますかってなに?」
「おかわり? なんだなんの話だ? まだお前寝てるのか」
起き抜けに意味不明な言葉を発した息子を見て、元はまだ寝ぼけているのだと笑った。
同じように鉄二自身も眠りの端で聞いた言葉の意味が、元に通じないことでそれがやはり夢だったのかと疑う。
目を擦りながら頬の内側を無意識に舐めた鉄二は舌先に甘味を感じた。
「甘い……これ……」
間違いない。昨日もらった飴の残り味だ。
そう確信した鉄二は布団から飛び起き、元に「べ、便所っ!」と言って廊下に出た。
薄暗く気味の悪かった廊下の景色は、朝にもなるとさすがに明るく表情を変えていた。
時折、どこからか足音が聞こえたり、味噌汁の香りが漂ってきたりと、目で見えなくとも忙しなさに包まれている。
「どこの部屋だったかな」
そもそも、あの女性の部屋に行ったのだって夜中に便所の帰り道を間違えたからだった。
暗い中でどこを歩いたのかも朧気だったが、鉄二にはただ一つ頼りになるものがあった。
「お香の匂い……」
女性の部屋にはお香の香りが漂っていた。
あの匂いをまだ覚えていた鉄二は、部屋のそばまでいけばその匂いがするはずだと考えたのだ。
ひとまず便所まで行き、そこからどう歩いたのか。
記憶を手繰り寄せながら通りすがる部屋のふすまに鼻を近づけるとお香の匂いを確かめながら歩いた。
「うまいなぁ。うん、これが充郎の味かぁ。うんうん、充郎らしい」
「そうさねぇ、あの子の性格をよう表しとる味だよねぇ」
「ほれ、さと。お前ももっと食え。充郎もお前にもっと食ってほしいと思っとる」
「ええ……頂いています。充郎さん、おいしいです」
――この声、あの人だ!
4つ目の部屋で聞いた会話の中で、聞き覚えのある声に当たった。
その声が訪ね人だと確信したのと同時に鼻腔の先をくすぐる知っている匂い。
お香の匂いだ。
声と匂いに嬉しくなった鉄二は、なにも考えずについふすまを開けてしまった。
「おばちゃん!」
ふすまを開けて見た光景に鉄二は固まった。
「なんじゃあお前はぁ」
急に知らない子供がふすまを開けたことを訝った老翁が真っ赤な口元で借問した。
「あら、昨日の坊や」
優しい声に一瞬、安心しかけた鉄二だったがその手元を見て再び身を硬直させる。
鉄二が見た光景――。
それは、『船家充郎』の【どんぶり】に盛られた真っ赤な飯を、老女と老翁、そしてあの女性の三人が茶碗によそって食べている姿だった。
「どうしたの? お腹が減ったの?」
老翁のように口元を赤くはしていなかったが、鉄二を覗き込んだ際、言葉を発した口から血と米の混ざった匂いで鉄二は激しく混乱した。
幼い鉄二が、この状況に於いて物事を整理する能力があるはずもない。
ただ目の前に突き付けられた意味不明な出来事と、やさしい女性から発する血の匂いに発狂しそうだった。
「あわ……わ……」
「坊や?」
茶碗と箸を持ったまま、女性の後ろから鉄二を覗き込む口を赤くした老翁。
眼を細くして、老翁と僅かに距離を置いてこちらを窺っている老女。
血の匂いの女。
まるでここが地獄でもあるかのように、怯えきった鉄二は後ずさりして壁にぶつかり、その場にへたり込んだ。
そして失禁してしまった。
「おうおう! このガキ小便漏らしやがった!」
鉄二の失禁に怒鳴り散らす老翁と、鼻を摘まむ老女。だが女性だけはやさしく鉄二の頭を撫でて言った。
「大丈夫です。きっと、【どんぶりさん】を見て怖がってるんですよ。余所の人たちには分からない風習ですから」
「そうかもしれんが、倅の赩飯食うとる粛然とした場にのうのうとやってきた挙句、小便漏らして慄くなんぞ許せんだろうが!」
「子供ですから、どうか。どうか許してやってください」
女性は庇うように鉄二の頭を抱いた。
お香の匂いのする柔らかい胸に抱かれ、鉄二も少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
「お前のところは子供がいなかったからねぇ。気持ちは分かるよ。あんたさんも許しておあげ、きっと充郎だって許してるよ。あの子も子供好きだったからねぇ」
「……ふん。勝手にしろ。その代り、そのガキを絶対この敷居を跨がせるんじゃねぇぞ」
女性は「はい」と一言答えると、鉄二の小便で濡れた腰巻のまま立ち上がる。
老翁と老女は先に部屋の中へ戻ると、ふすまを閉めた。
「ごめんねぇ。おばちゃんを探してくれたんだね。うれしいな、ありがとう」
鉄二はそれに対する返事ができず、ただ黙ってうつむいていた。
「怖かった? そうだよね、でも怖くないのよ。いずれ分かる時が来るわ。さ、一緒にお風呂に行きましょう」
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