父の双眼鏡 / ホラー小説
■父
僕の父親は10年前、母の故郷である伊豆へ向かうフェリーから転落して死んだ。
警察の調べによると事件性はなく、本人の過失による事故だという。
父親はもともと寡黙で無口なタイプではあったが、母が病床に伏してからは余計に口を開かなくなった。
そんな母が亡くなったのは、いい歳して残業に暇がない父が定時で帰ってきた日のことだ。
長年連れ添ってきた夫婦ならではの予感だったのだろうか。
病室に父がやってくるのを待っていたかのように母は静かに息を引き取った。
当時、僕は22歳で実家から離れた土地で働いていたために母の死に目には会えなかった。
母の亡骸と対面したのは、翌日の夜になったことを今でも時折、悔やんでいる。
だからできるだけ、ひとり身になってしまった父を気にかけていたつもりだったが、やはり寡黙な父はそんな僕の気遣いを断り続けた。
それから4年が経ち、僕は少しばかりの出世をしたまには父に御馳走しようかと思い帰郷した。
僕が家に帰ると、男の一人暮らしとは思えないほど部屋は片付いている。
一人になった父の暮らしを心配したが、いい意味でも悪い意味でも几帳面で神経質気味の性格がよく出ていると思った。
いい加減なものや、中途半端なものは許せないのだろう。
反面、台所や洗濯機の周辺を目を凝らして見てみると、悪戦苦闘したのだろうという痕跡も見える。
やはり急に男が一人きりで一軒家に住まうというのは、根気と忍耐が必要なようだ。
かく言うこの僕だって、一人暮らしは容易ではない。
綺麗にしている部屋を父を前に褒めなかったのは、僕なりのプライドだったのかもしれなかった。
お世辞にも僕の部屋は綺麗にしているとは言えないありさまだったからだ。
「母さんは片付け苦手だったからね。きっと僕は母さんに似たんだ」
父を褒めない代わりに僕は皮肉を言った。
――片付けや掃除は父さんに教えてもらっていないから、僕は悪くない。
26にもなって、子供のような言い訳をすると父は少し笑った。
いくつになっても、親は親。子は子なのだ。
だが父が笑った理由は、僕の皮肉だけではなかったようだった。
■双眼鏡
普段会う時よりも少しだけよく笑い、機嫌がよさそうな父は手元に古い双眼鏡を持ち熱心に手入れをしているのが目に入る。
「双眼鏡? どうしたのそれ」
「ああ、昔な。あいつと蝶ケ岳に登った時に持ってたやつなんだ」
父は嬉しそうにそれを磨きながら話したが、僕はその双眼鏡に見覚えはない。
それどころが、几帳面な父の持ち物だとは思えないほど汚れていたことに驚いた。
「ずいぶんと傷んでるね」
「そうか? まだまだ綺麗だし現役だぞ」
確かに父は昔、母と山に登ったと聞いた。
あいにく登山には無関心だった僕は、父からそれらの話を聞いたことがない。
だから余計にピンと来なかったのだろう。
しかしピンと来ない理由にはもう一つある。
少なくとも父は僕の知るうえでは一度も山へ行ったことがないのだ。
「……そういえば父さんさ。なんで山に登るのやめたの」
「ん、なんでお前父さんが登山をやめたことを知ってる」
「よく言うよ。僕がここに住んでいる時に一度でも登山に行ったことある? それに家の中で登山道具を見つけた試しもない。父さんと母さんが昔登山をしていた話は知っているけど、二人が本当に登山をやっていたっていうい痕跡がないんだ。そりゃやめたんだって思うだろ」
そう指摘した僕の言葉にも父は相変わらず「そうか?」と言って笑みを浮かべているだけだった。
「……父さんが山に登っている頃な。母さんのほかにもう一人、親友がいたんだ」
なかなか出かける用意をしない父に痺れを切らし、観念した僕は台所のテーブルでコーヒーを飲んでいた。
だからか……父が静かに、だけど小さくそう呟いたのがはっきり聞こえたのだ。
「もう一人? そうなんだ」
さっきも言ったが、登山には関心がない。だから登山の思い出を語られようが、父と母の他にもう一人いたという第三者のことにも別段惹かれるようなものではなかった。
「佃という奴でな。大学からの親友で、山へ行くときには必ず佃がいた。父さんと母さんが結婚することになって、佃は知り合ってから初めて一人で山に登った。薬師岳から見える景色を写真に撮って、父さんたちにプレゼントしてくれるつもりだったらしい」
「つもりだった……らしい?」
「ああ、佃はその登山の最中に崖から落ちてな。死んでしまったんだ。そして、この双眼鏡は佃が持っていた双眼鏡でな」
僕は合点がいった。
父と母が結婚を機に登山をやめた理由を察したのだ。
おそらく、二人の親友だった佃という人が死んだことで二人は山に登る気が失せてしまったのだろう。
親友というくらいだから、親密だった友人はずだ。それが自分たちを祝おうとした先で死んだ。
登山をやめるには充分な理由かもしれなかった。
「この双眼鏡はあいつのお気に入りでな。当時、一番いいやつだったんだ。ずいぶんと高かったみたいだが、奮発して買ったらしい。佃はこの双眼鏡で山の景色を隅々まで見るのが好きだった。あいつはよく言っていたよ。『この双眼鏡を覗くと、普段見えないものが見える。大事な思い出とか、そういうのが今見えている景色と混ざり合ってすごい絵になるんだ』ってな」
「そんな大事な双眼鏡をだしてきたってことは、また登山する気になったんだね」
愛しそうに、そして幸せそうに双眼鏡を手入れする父を見て僕は言った。
きっと掃除や片付けの途中で、この双眼鏡を見つけたのだろう。
「誰だかわからんが、よくこの双眼鏡を送ってきてくれたなぁ」
「え、誰だかわからない?」
「ああ。だが佃の友人からかもしれない。ともかくとして、ありがたいことだ」
この時の僕は、あまりそれを重要なことだとは思っていなかった。
父がフェリーから落ちて死んだのは、それから1年後のことだ。
海から上げられた父の遺体の持ち物には双眼鏡はなかったが、持っていることは一目瞭然だった。
船内に残されていたバッグに、新しく買ったらしい双眼鏡用のケースがあったからだ。
父の顔は安らかだった。笑っているようにも見えた。
双眼鏡を手入れしている時に笑っていた父の顔そのものだったのだ。
きっと苦しまなかったのだろう。
「もしかして、母さんがいたのかな」
そう思わせるような、表情。
双眼鏡は今、僕の手元にある。
差出人は分からないが、先週僕の家に送られてきたのだ。
どういうわけか気味の悪さは感じなかった。
それよりも、なんだか温かいものを感じるような。
このところ僕は父と母の夢をよく見るようになった。二人は、山の頂上から僕を見つめて笑いながら手を振っているのだ。
今度、この双眼鏡を持って登山に出掛けてみよう。
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