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怪紀行山梨・奇病との百年記!蛍の消えた里 杉浦醫院 その3

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■無理筋の防疫

甲府盆地全域の川の水に日本住血吸虫が分布していることが明らかになりましたが、ひと口に「川に入るな」といっても、田畑を営む農民たちには川の水は生活と密接にかかわりすぎていて無理な話でした。

感染するとわかっていながら、それでも生活のために川の水を扱い、病に冒される農民はその後も後を絶ちません。

せめて、どのようなプロセスで寄生虫が人体内に潜り込むのか。

そのメカニズムさえわかれば、この窮状を脱することができるのに。

杉山なかさんの献身により、大きく前進したかと思われた研究はここでふたたび足踏みを余儀なくされます。

この時代、寄生虫や感染に至るのは大きくは経口からであると考えられていました。つまり「飲料水として飲む」ことで感染する。もしくは料理に使うなど、とにかく口に入れてしまうと寄生虫を自ら体内に取り込んでしまう。

研究者たちは当然、こちらの方針で調査をしていましたが一部の農民からはそれを疑問視する声もあったといいます。

というのも、田んぼや川に入ると水に浸かっていた手足が赤くかぶれることが多々あったからです。地元民はこれを「泥かぶれ」と呼んでいて、虫に刺されたのだと思っていました。

虫に刺されるのと肉眼で視認するのはほぼ不可能の寄生虫とではわけが違うという一般論はありましたが、ようやくそこに目を向けられることになったのです。

経口感染説が否定されている状況で、残る可能性はごく限られていたからです。

■判明

学会では、経口感染説を根強く推す派と経皮感染説を唱える派が対立する構図となりました。その中の皮膚科医師がその身をもって実験を試みるということが起こります。

結果、自らの腕を田んぼの水に浸けることで彼は感染します。

体を張ったこの実験によって、ついに経口感染説は覆され経皮感染が証明されたのです。

しかし、これによってむしろ農民たちを混乱させました。経口感染なら、予防のしがいはありますが経皮感染なら水に触れるだけでアウト。わかっていても水に携わる以上、避けられません。

やはり、感染源そのものを断つしか術がない、という結論に至ります。

■ミヤイリ貝の発見

家畜の糞尿に虫卵に交じり、川に流される……しかし、孵化した日本住血吸虫は生き物の体内でしか生息できないのですぐ死に至る。そうなると川に生息するなんらかの生き物を中間宿主にして成長してから再び水中に放たれると考えられました。そうして人間や動物の皮膚を突き破って体内に侵入する。

問題はその中間宿主がなんであるかです。

調査の中で宮入慶之助氏が水路に生息する小さな巻貝を発見します。のちにこの巻貝は『ミヤイリ貝』と、宮入氏の名を冠し命名されることとなります。

甲府盆地の水路・川や田んぼに大量に生息するこのミヤイリ貝が中間宿主であると判明したのです。

これにより、ついに長きに渡って謎に包まれていた感染経路がわかりました。

糞尿から川の水に卵が放たれ、孵った虫がミヤイリ貝に寄生し成長して(厳密には変態)再び水に放たれ、それが人や動物に寄生、そうして体内で繁殖を繰り返し発症、死に至る。

そうなれば、米を作るために水に触れなければならない大人より、子供たちに「川に入るな」と啓蒙することが急務となります。

しかし、子供たちにどうして川に入ってはいけないのかをきちんと理解してもらうのは困難でした。そこで考えられたのが、絵本やポスターで呼びかけるという手段です。

今で考えると大した案ではないように思えますが、当時としては画期的なアイディアだったといいます。絵と、文字、そして『地方病博士』というキャラクターは地元の子供たちには効果がありました。

■杉浦醫院

中巨摩郡昭和町に住まう杉浦建造医師は娘婿の三郎氏とこの地方病予防に関する啓もう活動を積極的に続けました。自らが営む医院でも地方病患者の治療に尽力したといいます。

それでも感染防止は困難だと悩んだ末、地方病の根絶しかもはや道は残されていないと悟ります。

そうして杉浦親子は私財を投じ、ミヤイリ貝撲滅活動を推し進めるようになります。

そんな杉浦氏たちの働きに感化され、官民一体の運動に発展。『山梨県地方病撲滅規制組合』が結成されるに至ります。

戦後、昭和22年に昭和天皇が視察に訪れた際は案内人を三郎氏が務めました。

ミヤイリ貝が中間宿主で感染を広げていると判明してから、ミヤイリ貝が生息している地域=発症が多く発生している地域であるということもわかり、さまざまな駆除方法が試みられました。

火炎放射器で焼き払ったり、農薬や薬品を流したりと、思いつく限りの手段が試されましたが、そのどれもが効果的とは言えない状況でした。

一方、指をくわえて見ているだけなどできないと農民たちは自発的にミヤイリ貝の駆除に乗り出します。それは、老若男女問わずとにかく人数を動員し、人海戦術で一匹一匹米粒ほどのミヤイリ貝を除去していくという方法でした。

お椀に箸を持ち、集めていく涙ぐましい光景が連日見られ、このことから彼らの深刻さがうかがい知れるようです。

この活動は実に8年間も続けられ、集められたミヤイリ貝は米俵96俵にも及ぶ数になったといいます。それは気の遠くなるような、切実な運動でした。

■根絶まで

その後、石灰がミヤイリ貝を死滅させるのに有効だとわかりますが、あまりにもミヤイリ貝が広範囲に分布されていて石灰による根絶は断念されます。

地方病との闘いはさらに長期化することが見込まれました。

地方病の根絶にはミヤイリ貝の撲滅がもっとも有効であると信じ、実に70年以上も官民一体の撲滅運動は続くこととなります。

昭和11年、甲府盆地におけるミヤイリ貝の生態観察が行われた際、生物学者の岩田正俊氏はミヤイリ貝が水田や水路の周辺など、流れが緩やかな場所に多く生息していることに注目しました。

『ミヤイリ貝が生息するのに適した環境である』ことに気づいた岩田氏は、『ミヤイリ貝の根絶ではなく、ミヤイリ貝が生息しづらい環境を作ればよいのではないか』とこれまでの逆説ともとれる説を唱え、用水路をコンクリート化し水流を早くする提案をします。

それは、『ミヤイリ貝を撲滅』が地方病根絶につながると信じられてきた中での革新的な提言でした。

〝撲滅〟ではなく、急流によりミヤイリ貝が生息できない環境を作る。

決して簡単な手段ではなく、不可能とも思えた方法でしたが実証実験や様々な働きかけもあり、劇的な効果があることがわかります。

そうして急ピッチにコンクリート化が推し進められ、実に累計100億円の莫大な費用を投じ、甲府盆地の全水路コンクリート化が実現します。

コンクリート化した水路の総距離は2109キロ。これは実に北海道函館市から沖縄那覇市までの直線距離に相当するものでした。

■終息宣言

昭和53年。韮崎市で発症した一名を最後に新規感染者の報告はなくなりました。

さらに昭和58年に人間以外の感染もされなくなり、このころには終息したと見られています。

甲府盆地の景色もその間にずいぶんと変わりました。

米作り中心の田園風景は鮮やかな実をつける果樹園に様変わりし、あちこちにあった水路はみんなコンクリートのものになりました。

やがて「1977年以降感染したミヤイリ貝が発見されていない」ことと「1978年以降新規感染による地方病患者が現れていない」ことから、1995年(平成七年)、ついに『山梨地方病の流行は終息し安全である』という終息宣言がなされ、名実ともに根絶が明言されました。

ここに115年にも及ぶ、地方病と呼ばれ人々を苦しめ続けてきた奇病との闘いが決着したのです。

杉浦醫院は、今もそのままの姿を残し資料館として門を開かれています。

甲府盆地の人々と研究者がどのようにして日本住血吸虫と戦い、ミヤイリ貝との共存を果たすようになったか、その歴史がこまやかに記されています。

杉浦親子が研究をつづけ、地方病患者を治療し続けてきたそのままの状態で保存されています。興味のある方はぜひ、足を運んでみてください。

かつて山梨県の甲府盆地といえば、蛍の里として有名でした。

先に登場した、蛍見橋の名からわかるようにいたるところで蛍が見られたのです。

それは、甲府盆地の豊かな水源と自然が蛍の生息環境に適していたからで、県外からも見物客が来るほど有名な蛍の里でした。

しかし、地方病根絶の取り組みで水路がコンクリート化してから蛍はその姿を消しました。

地方病の根絶と引き換えに、美しい蛍の里をも失ってしまったのです。

そんな中、この地にまた蛍をよみがえらせようという取り組みがあります。

杉浦醫院の中池では今、蛍の養殖が試みられているのです。

いつか、この地にもまたたくさんの蛍が帰ってくるよう、祈るばかりです。

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