【連載】めろん。56
・破天荒 32歳 フリーライター⑪
広志が帰ったのは二三時を大きく過ぎたころだった。
廊下で壁にもたれかかったまま座り、なにを見るでもなく宙を見つめていた私を見て異状を察知した。刑事ならではの勘というやつだろうか。その正確なアンテナに感心する。
檸檬は泣き疲れてソファで眠った。その横で理沙もまた眠っていた。
縛り付けられた理沙を見て広志は唖然とし、すぐに私に詰め寄ったが私もまた正常ではない。声を発することさえ億劫で、広志の目さえも見られなかった。
ようやく自分の正体が戻ったのはさらに数時間が経ったあとだ。いつのまにか無意識に泣いていたのに気づき、それで正気に戻った。
ダイニングのテーブルに広志はいた。飲んでいるのかと思ったが、グラスの中身は水だ。今、この状態で酒をいれるわけにはいかないと判断したに違いない。
私の気配に気づいた広志は立ち上がった。
すこしの間見つめ合ったまま、そしてまるでダンスの振り付けのように互いが歩み寄る。涙は止まらなかった。それを見た広志はなにも声をかけず、ただ抱きしめた。
広志の腕のぬくもりで、緊張が解けていくのがわかる。次の瞬間、体に烈しい震えが襲った。
背が冷たく、立っている気がしない。歯を食いしばっていなければ、ガチガチと音を立ててしまいそうだった。
だくだくととめどなく溢れ続ける涙だけが妙に温かくて、ここから私の体温がすべて抜け落ちてしまいそうで怖かった。
「大丈夫だ。俺がいる」
広志らしからぬ言葉だ。この男は気休めのようなことは言わない。すくなくとも私が付き合っていたころは一度もなかった。
人間らしい、もっといえば男らしい言葉。簡単な一言だったが、今の私には充分すぎた。
「うっ……うっうっ」
咄嗟に口元を押え、声を押し殺す。檸檬と理沙を起こすわけにはいかない。檸檬もずっと泣いていた。縛られながらももがき、暴れる理沙に優しい言葉をかけ続けていた。
赤の他人である私にはなにもできなかった。どんな言葉もしらじらしくて、とても言えない。口をパクパクさせるだけで突っ立っている私は無力だった。
「俺の前で泣くなんてはじめてだな」
「うるさ……い……っ、うう」
膝から落ち、へたり込んだ。広志も同じようにへたり込むと抱きしめる力を強める。頼もしかった。その頼もしさがさらに私を弱くする。
口を押えたまま、私はひたすらに泣いた。
広志にすべてを話し終えた時には朝になりかけていた。
ずっと真剣な表情で聞いていた広志は、ソファで眠る姉妹を見つめた。そのまなざしには決意めいた強い光が宿っていた。
「従順を演じながら情報集め……なんてしている場合じゃないな」
どのみち、檸檬たちを長い間ここに匿うのは無理がある。どうせ持ってあと数日から一週間くらいだっただろう、広志はそう言った。
「だがさすがにこの状況は予想できなかった。起きてほしくないことは、死角からやってくるもんだな」
「どういう意味」
「そういう意味さ。お前も休め。そしたら今晩にもでるぞ」
「でるって……」
「広島は遠いぞ」
ハッと目を見開いた。
「……本気なの」
「それしかない。もう準備に時間を割いていられないからな。あそこに行けば、理沙を救う手立てがあるはずだ」
そんなのただの希望じゃない、言いかけてやめた。私が諦めてどうする。できること、思いつくことはすべてやるべきだ。
「わかった。広志も休んでよ……って言ってもほとんど寝る時間ないけど」
「ショートスリープは得意なんだよ。そうでもなきゃ張り込みなんかできっこない」
「ほんと、真似できない仕事」
「お互い様だ」
広志は笑った。釣られて私も。
笑っている場合ではないのに、なぜか私たちは笑い合った。付き合っていた時でも、こんなに自然に笑い合えたことはなかったかもしれない。
「絶対、理沙を救って帰ってこようね」
「問題ない」
そう言って広志はリビングの床に寝転んだ。
「ベッド使って。私はいいから」
「遠慮しておくよ」
疲れが取れないから、と食い下がったが広志はもう寝息を立ててしまった。
ショートスリープが得意、というのは本当らしい。
諦めた私はせめてもと毛布を掛けてやった。
ベッドに横たわると、「眠りたくない」という思いが頭をよぎる。
眠ってしまったら、次に起きた時……私はめろん村に行くのだ。ギロチンが消えた……あの場所へ。子供を連れて。
怖い。
身震いすると、すぐにベッドから立った。そして、広志の寝顔を覗き込む。
「……大丈夫。きっと、広志がいれば」
声を出して言うと、すっと震えがおさまった。
やっとわかった。広志から話を聞き、ギロチンがいなくなり、檸檬の体験を聞いてもなお、私はどこかめろんに現実味を感じていなかったのだ。
それが理沙が発症したことで自分の身に降りかかった。この悪魔のような症状が、本当のことなのだと実感したのだ。
それゆえの恐怖と緊張が、私を支配した。
オカルトライターなんて、肩書だけで笑えてくる。
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