【蔵出し短編】アキレス健太郎 4
「あの、三浦さん!」
本館の外に飛びだしたぼくはすぐに無線で三浦を呼びかけた。
『なんだ』と応答した三浦はまだトイレの詰まりが直っていないことを告げた。
「そんなことよりさっきタオルを拾って、それが記念館で……」
『お前……気付かれたのか』
喋っている最中にもかかわらず強引に三浦は割り込んできた。たった今味わった出来事にパニックになりかけていたぼくに冷や水をぶっかけるような冷たく刺すような口ぶりだった。
動揺していたぼくは一気に冷静さを取り戻し、危うく口にしそうになった名前を喉奥へ押し戻す。
「い、いえ……。プールにタオルが落ちていたので回収しました」
『そうか。拾得物に記載しとけ』
返事をして通信を切った。
静寂の中、ここでは自分を守ってくれる者はいないことを痛感する。同時に、どうして当番を受けてしまったのかと後悔に苛まれた。
とにかく早く終わらせてしまおう。まだ真昼間だ。
この周回さえ終わらせれば次まで時間がある。そこで落ち着きを取り戻せば……。
……でも次もひとりで周回しないといけないんだよな。
厭だ。さっきまでひとりが気楽だとか思っていたが、今はひとりでいることが怖ろしい。空はこんなにも明るく、陽も照っているというのにぼくはひとり冷や汗に濡れていた。
本館はまだすべて周りきれていないがとても戻る気にはなれない。このまま逃げ帰ろうとも思ったが、それをしてしまえば明日から自分の立場がない。
怖気づいていながらもしっかりと客観視できてしまう自分が疎ましく思った。
とにかくテニスコートと駐車場を回ってから三浦と合流すべきだ。あんな男だがひとりでいるより断然マシだ。
テニスコートには陸上用スパイクが片方だけ落ちていた。近づく気には到底なれず、見なかったことにして駐車場へ向かった。
プールに落ちていたタオルもそうだが、朝の巡回で確実に各場所を確認している。仮にプールのタオルは見落としていたとしても、テニスコートのスパイクは絶対に見落としていない。
つまり、10時から12時の間に誰かがここに置いたとしか思えないのだ。
そしてぼくはそれをした人物を連想してしまっている。
【成田健太郎】――
駐車場にやってきた。パッと見ただけでもいくつもなにか落ちている。目を凝らす気になどなれず、その場から走り去った。
もはやぼくの心は平静を失っていた。
もうだめだ。いくら無視しようとしても無理だった。
自分になにが起こっているのかわからなかったが、漠然とわかってしまったこともある。
ぼくはおそらく、気付かれてしまったのだ。
「三浦さん!」
三浦が便器の詰まりを直しているはずの外周側多目的トイレに駆け込んだ。
名を呼び、スライドドアをこじ開けようとするが開かない。
なぜ鍵を閉める必要があるのか、疑問に思う暇もなく烈しくドアを叩いた。
「三浦さん! 三浦さん、開けてください!」
もうこんなところにいられない。帰らせてほしい。手当もなにもいらない。とにかく家に帰りたい。
三浦の顔を見た瞬間、全部ぶつけて逃げ帰るつもりだった。
13日の金曜日を見誤っていた。そんなオカルトめいた話を信じられるわけがない。佐竹の件だって偶然だ。それらをすべて確信にしたかった。
だがすべてが謝りだったのだ。彼らが恐れるすべてがきっと真実で、恐れるすべてが自分に降りかかろうとしている。その実感だけが悲しくなるほどはっきりとあった。
力の限り三浦の名を叫び、ドアを叩いた。
「お願いです! 三浦さん、帰りましょう! ぼくが悪かったです、もう二度と13日の金曜日のことを知ろうとしません! だからお願いです、開けてください!」
その時、かちゃりと解錠する音が奥から聞こえた。間髪入れずにドアを引く。
これまで頑なだったドアがすんなりと開き、中に飛び込んだ。
「……え」
トイレの中は真っ暗だった。防犯の観点から小窓を設置していないせいで、昼間にもかかわらず点灯していない個室内は闇そのものだ。
「三浦さん?」
自動で閉まるドアが光からぼくを閉じ込めた。
『おい、お前なにしてんだ。まだ巡回してるのか? いくらなんでも遅いぞ』
無線機から三浦の声。
「え……三浦さん、トイレを修理してるんじゃ」
『もう直ったから事務所に戻ってきた。お前なにしてんだ。タラタラやってる内に次の巡回がくるぞ』
「うそだ……」
『うそ? うそってなんだ。どうでもいいが早く帰ってこい。もしかして余計なことをしていないだろうな? おい、どうした。返事をしろ』
「三浦さん! してますよ返事! もしもし、もしもーし! 三浦さん! 三浦さあん!」
スピーカーの三浦の声が次第に遠のいてゆく。それに加えてぼくの声もまるで届いていないようだった。何度も通信ボタンを押すがまったく反応がない。
暗闇のトイレの中で三浦を呼ぶぼくの声だけが木霊していた。
そして、完全な静寂が訪れた。
「い、厭だ……冗談じゃない……だせ、だせよ……だしてくれよ誰かあ!」
手探りで闇の中、扉を探す。絶叫しながら手のひらで触れた壁を叩き、その堅さからドアでないことに絶望した。
「助けて! 誰か助けてください! お願いだ……誰かあ~!」
何度もそれを繰り返しているうちに手の感覚がなくなってゆく。硬い壁を力いっぱいに叩いているせいだ。
不意に暗闇に光が差し込んだ。
細い光だったが漆黒の闇の中では目が眩むほど眩しかった。
三浦が助けにきてくれたに違いない。もつれる足で駆け寄り、眩い光の隙間に手を差し込んだ。
これで助かる……。もう二度とこんな思いはごめんだ。13日の金曜日なんて、アキレス健太郎なんて、もう二度と……
光の隙間をこじ開ける。ずんずんと隙間が広がる。人ひとり出入りできるだけ広がったのと同時に光のほうへと転がりでた。
しばらく暗闇にいたからか、すぐに目が開けられずしかめっ面になった。
徐々に目を慣らし瞼を開けると滲んだ視界が鮮明になっていった。
「よお、お前もきたのか」
聞き慣れた声だった。それだけに耳を疑う。
「佐竹……さん?」
「そうさ、ほら立てよ。これからがいいところなんだ」
「はい……いいところって、なにかあるんですか」
ようやく視界が回復し、佐竹が差し伸べた手を取った。
なぜこんなところに佐竹がいるのか、不思議と疑問には思わなかった。ただあの暗闇から抜けだせたという安堵で気持ちがいっぱいになっていた。
「佐竹さん?」
立ち上がったぼくはすぐに異変を感じた。手を取ったはずの佐竹の姿がない。
「どこ見てんだ、こっちだよ」
「……なにしてるんですか」
佐竹はなぜかぼくの前で跪いていた。佐竹がいないように思ったのは、ぼくよりも低いところにいたから目に入らなかったようだ。
「だから言ったろ? 気づかれたんだって。でも俺はな、これでよかったって思ってるんだ」
「わからないです」
ぼくがそう答えると佐竹はニヤニヤと笑ったきり喋らなくなった。
「それよりもここ……」
外周側の多目的トイレにいたはずだが、自分が今いる場所は外周ではない。ひと際高い壁が左右にあり、正面は開けている。
「お前さ、13日の金曜日って特別な日だって知ってた?」
「キリストが磔にされた日でしたよね」
「違うよ、成田健太郎がアキレス健太郎になった日だよ」
「やめてくださいよ! その名前は口にしちゃ……」
ずっ……ずっ……
なにかを引きずるような音が聞こえた。どこか耳障りで不快な気持ちにさせる、不思議な音だった。
「なんの音ですかこれ……って、ちょっと佐竹さんなにしてるんですか」
「一緒になろ? 一緒になろうよ」
「気持ち悪い喋り方しないでください! ちょっと放してください!」
膝を突いたままの不自然な姿勢で佐竹はぼくに抱き着いてきた。全力で体重がかかり、動けない。
「悪ふざけはやめてください! 大体、会社辞めたんでしょ!」
「お前のせいだろうが!」
「なんでぼくの……佐竹さん元気そうじゃないですか!」
ずっ……ずっ……ずっ……
引きずる音が近づいてくる。背中から怖気が立ち昇り、体中にぷつぷつと鳥肌がたつのがわかった。
アレに近づかれてはいけない。
直感が言っている。だがアレとはなんだ。
「あっ……」
佐竹を引き剥がそうとした時、ここがどこなのかわかってしまった。
その瞬間、全身の血の気が引き唇がぶるぶると震えだす。
「放せてめえ!」
全力で佐竹を突き飛ばし、踵を返すと俺は走った。そこには入場口があるからだ。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイ! 開けてくれよ!」
今日は「開けて」ばかり言っている気がするが気にしていられない。ドアを派手に揺さぶるが音だけが騒がしいだけで開く気配はなかった。
ずっ……ずっ……ずっ……
「厭だ! 近づいてきた! 助けて! 三浦さん、主任、誰かあ!」
音はゆっくりと、だが確実に近づいてくる。俺は振り返ることすらできなかった。
「開けろ! 開けろ! 開けろよちくしょう!」
『やっと繋がった! お前、どこにいるんだ! 多目的トイレにもいないぞ。まさか競技場に行ったんじゃないだろうな』
無線機から三浦の声。
「三浦さん! 助けてください! ぼく、行くつもりもなかったのに競技場の中にいるんです! お願いですなんでも言うこと聞きます、助けてください!」
『え、お前……』
そこで無線は切断された。いや、今の様子だと三浦から切ったようだ。
「三浦さあんっ!」
声の限り叫ぶ。扉は開かないが、突然ずんっと体が重くなった。誰かにすがりつかれたような、腰から下に引っ張られるような人為的な、不自然な引力。
恐る恐る目線を腰に落とす。
「うわああ!」
佐竹だった。まん丸く目をひん剥いたその顔は、無垢であり邪悪でもある複雑な表情をしていた。ただはっきりしていることは、佐竹からは一切の生気を感じないことだ。
佐竹を引き剥がした拍子に地面に転がる。
競技場特有の弾力ある堅い地面がここがどこかを思い知らせた。
「なあ」
至近距離から知らない声が聞こえる。咄嗟に顔を上げると、真っ白な顔で額に前髪を張りつかせ、真っ赤に充血した目でこちらを見ている人の姿があった。
「成田……健太郎……」
「お前のアキレス腱、くれよ」
匍匐前進の体勢で体を引きずりながら近寄ってくるソレは、足首から先がなかった。
さらに両手にスパイクを握りしめている。
ハッと佐竹を振り返ると、ニヤニヤ笑いながら佐竹も同じように匍匐前進ですり寄ってくる。その足は足首から先が千切れていて無い。両手に靴を持っているのも気持ちが悪い。
「ア……アキレス……健太郎?」
笑ってしまいそうになった。ぼくは完全に感覚が麻痺しているようだ。
「は、はは……それ……足?」
すぐそばまでやってきたところでアキレス健太郎が両手に握っているのは靴ではなく、足首から千切れた足だった。
その時、俺の両足がなにかに捕まれ思わず足元を見る。アキレス健太郎と同じような恰好で僕の両足を掴む佐竹だった。
「へへ……うひひ……」
なんだかもう、どうでもよくなってきた。アキレス腱がないからアキレス健太郎なのか? バカげてる。
そうだ、この話を三浦や主任にしてやろう。佐竹にもだ。きっとみんな大爆笑に違いない。なんていったって、アキレス腱がないからアキレス健太郎なのだ。
こんな笑い話は他にない。
佐竹が両足首を掴んで固定し、アキレス健太郎が足首から先を文字通りバケモノのような怪力で引っ張る。あまりの激痛に佐竹の背に尻餅をつく。
「ああー……ああー……」
ぶちぶちと繊維が引き千切れる。足首ごと持っていくなら、それはもうアキレス腱とは言わないのではないだろうか。
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