【ブログ小説】ひとり10万円 2
2
口座から10万円、なくなっていた。
引き落とされたのではない。なくなっていたのだ。
きっかり10万円だ。手数料などの引き落としもなく、ただ通帳に〈-100,000〉と印字されている。
こんな表記は見たこともないし、聞いた事もない。
引き落とし扱いではないらしく、相手の名義などの情報も一切ない。空白だ。
当然、俺は窓口で問い合わせた。
「大変恐縮でございますが、どういった点がご不明なのでしょうか」
窓口の女は困惑していた。
なぜ10万円が行き先も分からずに消えたのかを再度訊ねると、次は支店長が現れ、あれやこれやと丁寧に説明したが、とどのつまり『それのなにが不思議なのか』といった内容だった。
あたかも俺の方がおかしいとばかりに。
納得は行かないが、これ以上話していても不毛だと思った俺は、その場を後にした。
正直なところを言えば、10万ぽっちの金などどうでもいい。
これが銀行側のなんらかのミスだったとして、もしくは覚えのないネット通販の引き落としだったとしても、最悪どちらでも構わない。
そのくらい俺にとってははした金である。
あの一件が無ければ。
村上はすこぶる元気そうだ。上司よりも早く帰るところもいつも通り。
自分が死にかけたことについても、不思議には思っているが別段怪我もないことに特に心配もしていないらしい。
あれだけ血が流れたというのに傷ひとつないということについて、もっと深刻にならなくてはおかしいと思うが、村上の性格を鑑みるにそういうタイプではなかった。
50も半ばを過ぎ、将来に諦めた挙句の楽観主義だろう。そうなった理由はわかるが理解はしたくない。
あの後何度俺が聞いても、村上は興味がない素振りばかりを見せた。
3度目でようやく俺も聞くのをやめた。
だがそうなると、やはり気になるのはあの電話である。
『10万円支払えばその方は救えます』
機械的でいて、事務的な女性の声だった。そうだ。まるで銀行員のような……。
そうイメージしたところで、昼間の銀行の光景を思い返し、あの電話の主よりもよっぽど人間臭かったと思い直す。
時刻は22時を大きく過ぎていた。
誰もいないオフィスを出て、俺は帰宅の途についた。
「はい、火事ですか、救急ですか」
俺は慌てた。
どうしても気になり、あの時かけた119番を確かめようとしてしまったのだ。
だが、あの時の事務的な女の声はなく、全く知らない男の声で緊急を訊ねられた。
「あの、道路で酔いつぶれて倒れている人がいたんですけど……あ、今別の人が担いで行ったみたいです。は、はい……意識はあるみたいで……すみません。大丈夫みたいでした」
通話を切った後も動悸が収まらなかった。
119番にかけたことなんて初めてだった上に、嘘までついたのだ。
実際には倒れている人間などいない。
人混みでごった返す駅のホームで、いびきを掻いてベンチで眠っている酔っ払いを見て咄嗟に口から出まかせを言ったのだ。
――119番にかけるのは初めてじゃなくて二度目か……。
鼓動が日常のリズムを徐々に取り戻そうとするのと同調するように、俺はふとどうでもいいことを思った。
思えば、あの一件から今まで……妙な体験をしているのは俺ばかりだ。
厳密に言えば村上もそうなのだが本人が気にしていない以上、自分だけが気にしているのは癪だった。
それに実害もでている。通帳から消えた10万円。実際に無くなっているのだから、あれが夢か幻だということも否定されている。
考えるな、というほうが無理があるのだ。
――とはいえ、あまりこのことばかりを考えていても仕方ないよな。
ようやく平静を取り戻した鼓動をしまいこむように、俺は手に持ったスマホをジャケットのポケットに滑り落とした。
パァーーンッ
ホームの屋根を吹き飛ばしかねない突然の轟音に、反射的に体が震えた。
せっかく落ち着きを取り戻したばかりの鼓動が一気に跳ね上がる。
「な、なんだ!」
思わず口に出した俺の声はいくつもの悲鳴にかき消された。
鉄と鉄が擦りあい、軋む音がホーム中に飛び回る。
やってきた電車は、俺の立つ場所までやってくることはなく、遥か手前で止まった。
あちこちから悲鳴や怒声が飛び交い、たちまちホームは騒然となる。
「人が轢かれた!」
「電車の下に人が!」
「誰か救急車!」
――きゅ、救急車!
咄嗟に俺はポケットにしまったばかりのスマホから119の番号をタップした。今度は本当に事故だ。憶することなどない。
――いや、でもちょっと待て。こういうのって駅員が処理するんじゃないのか?
思った時にはすでに遅かった。
スマホのスピーカーからはすでに呼び出しのコール音が鳴っている。
「ひぃっ……!」
スマホを耳にあてながら、電車の方を覗き見ると、見なくてもいいものを見てしまった。
引き千切れた人の腕、どこの部分かもわからない赤黒い肉片、車輪に絡まる長い髪、ぽつんと転がったスニーカー。
――ダメだあれは。完全に手遅れだ……。
どんな素人が見てもひとめでわかるほど、バラバラになったそれは元が人間だったという面影をほんの少しだけ残し、乱暴に、そして冷酷に死を突きつけていた。
「10万円になります」
「…………は?」
スピーカーの向こうから語りかけてきたその声は、知っているものだった。
「10万円支払えばその方は救えます」
「ば、バカいうな! あんなにバラバラのぐちゃぐちゃなのに……」
「いかがいたしますか」
目の前で電車に轢かれた人間がいる。だがどうみてもあれは死んでいる。
それなのにそれを10万円で救えるだと……?
「ふざけるな! なんなんだあんた! 119番だろこれ、救急隊に繋げ! 救急だ!」
「10万円、支払わない。つまりその方を救わない、ということでよろしいですね?」
「え……っ!」
よぎる村上の姿。今日の朝も、ついさっきまで会社にいた。
あの時、もしも俺が10万円払わなければ……死んでいたのだろうか?
鼓動が血管を伝い、俺の顔に上がってくる。顔が熱い。汗が噴き出す。
10万円、払ったら……あれが生き返る?
「払う……払うから、救ってみせろ」
1秒の沈黙。直後、ツーツーという切断を知らせる音。そして――。
「お、おい! 生きてる……生きてるぞ!」
「電車の下から女の子が出てきた!」
「う、うそだ……めちゃくちゃになってたはずなのに……! 俺見たんだ、本当に死んでたんだ!」
困惑と動揺、そして錯乱めいた悲鳴が飛び交った。
電車に轢かれた女子高生が生きていたという感動はそこにはなく、ただ「ぐちゃぐちゃの肉塊になったはずの女子高生が蘇った」という恐怖だけが存在感を誇示している。
そして俺は、呆然とそれを見ているだけだった――。
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