【夜葬】 病の章 -85-
取材が終わる頃、健一はシャツを汗でぐっしょりと濡らしていた。
まさに滴らんばかりの大量の汗。暑いからではない。怖いからだ。
「私に鉄の心臓がありゃあねぇ、あの村にまだ居場所があったのでしょうが……」
元の冗談にうなずくのが精いっぱいだった。
彼の気持ちとはひとつ。とにかくこの場から離れたい。この男から、離れたいと思った。
「ねえ、そうは思いませんか。弁護士さん」
「え? え、ええ……」
危うく健一は自分が【弁護士】だと偽っていることを忘れかけていた。
曖昧な相槌を打ちつつ、どこを落としどころにしこの場を解散するかばかりを考える。
――父さんがこの件に触れさせたくなかったのがよくわかったよ。この話は触れてはいけない。厄だ。
「気分が悪そうですが、大丈夫ですかぁ?」
「だ、大丈夫です。そろそろ、この辺で……」
テープレコーダーはいつの間にか止まっている。一体いつから止まっていたのだろうか、と健一は考えた。
だが思考している時間だけこの場に留まらなければならないことに気づくと、慌てて思考を中断しカバンにテープレコーダーを詰め込んだ。
元の話には続きがあった。
「一一月二九日。一一二九(いい福)の日にな、福祀りは行われた。俺はなぁ、どうしても居ても立っても居られなくてなぁ……つい村に戻ったんだ。もちろん、誰にも言っていないし、誰にも知られていない。俺が行ったという事実だって、テレビ屋さん……あんたしか知らない。そうだ、今この場で初めて喋った。そりゃあ当然だろう。あの村には事情は歪であれ、俺の息子がいるんだぁ。きっと福祀りで、俺の息子も殺される。ああ、殺されるっちゅうてもな、連中にはそんなつもりはない。大事な供物として必要な儀式なんだ。罪の意識なんてありゃしねえ。とにかく、誰にもわからないようにな俺は隠れてそれを見守った。現場はねぇ……そりゃあもう酷い有様さぁ。子供たちの泣き叫ぶ声がなぁ、たまらんのよ。遠めから眺めていたが、せめてもの救いは俺の目にはっきりと届かなかったことかなぁ。でも想像だけはしちまう。一体、どんな残酷なことが子供たちにされているのかってね。たまらず目を閉じると浮かんでくるのよ。ぽっかりと顔に穴を空けた子供たちの顔が。叫び声がひとつ消える度に、こっちを見つめる子供がひとつ増える。どんぶりさんがどんどん増えるんだ。俺は気が狂いそうになったよ。だからね、この場にいるのは、自分じゃないと言い聞かした。俺は黒川元だ。黒川元なんだ、とね。そんな思いをしながらもなぜその場から離れなかったが、不思議だろう? 離れたくとも離れられなかったのさ。そりゃそうさ……なんて言ったって、まだ俺の息子の声が聞こえていない。せめて、父親の責任として子供の死に目くらいにはいてやろうと思ったのさ。……いや、嘘だ。本当はね、アレが死ぬのを確かめたかった。アレが、確かに死ぬのを。そうして俺は安心を手に入れたかったのだな。目をきつく閉じながら、子供の叫び声。恐怖と痛みと絶望からくる、この世でもっとも恐ろしい叫びを聞きながら、俺はひとつひとつ数えた。二六、二七、二八……そして、二九人目。ついに俺の息子の声は聞こえなかった。そんなはずはない、奴はまだ子供のままだ。そう思って俺は儀式に近づいた。村にある神社でな、それは行われていてな。音を立てんようにそばへと寄った。わかるかい? その時俺が見たおぞましい光景をよ。二九体並んだ地蔵の顔にすっぽりと全部、子供の顔が嵌め込まれているんだ。村の男たちはみんな顔も手も真っ赤に血で汚して、女どもは子供たちの亡骸をどんぶりさんとしてもうもうと湯気を上げながら顔に炊き立ての飯を詰めこんでる。俺はその匂いを知っていたがね、この時ばかりは込み上げるものを堪えるのに必死だったよ。今でもその場に吐かなかった自分を褒めてやりたいね。だがそれより驚いたことがある。二九体の【魂が嵌め込まれた地蔵】の中にやはり俺の息子の顔はなかった。じゃあ、どこだ。福祀りから免れたのか。自然に考えるならそれが一番納得がいく。村の子供はなにも二九人だけじゃないからな。そう思いながら俺は探したさぁ。群れの中に己の子を。したら、いた。まさか、真ん中……群衆たちを煽動するように大手を広げ、その視線の先にな。息子は……いや、奴は俺の知っている息子の姿じゃなかった。いやぁ、顔が違うとかそういうこっちゃない。顔は間違いなく息子だ。これでも親だからなぁ、見間違えたりはしない。だが、姿が知ってる姿じゃないってことだぁ。わかるかい? 奴はな、大人になってやがった。俺が村を離れて一年も経っていないのにだぞ? 俺にはそれが一番恐ろしかったんだなぁ。だから、俺は俺を殺したんだ。最初からいなかったことにして、奴の親はもういないってことにした。といっても名乗る名前もないので、父親のをもらうことにしたんだ。幸い、親父ももう死んじまったからねぇ」
テープレコーダーには録音されていない、その話にこそ健一は恐れた。
「あの、じゃああなたは黒川元ではない?」
「……訊くだけ野暮ってもんです」
「ど、どうして嘘を」
「どうして? そりゃあ、お互いさまでしょう。【弁護士さん】?」
この時点までは、逃げ出すほどの恐れは抱いていなかった。
健一が、本当の恐怖を味わったのは……この続きである。
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