嗤う旅戦跡を訪ねる【大阪・旧真田山陸軍墓地】 2
■やすらぎ
旧真田山陸軍墓地は、入り口がいくつかあります。
正面の入り口が正門、という扱いなのですが私は神社側から入ったので側面から足を踏み入れたようでした。
持っていた地図とズレていて、自分がどこにいるのかわからなくなりました。
しかし、目の前には墓石がずらり。
その光景に圧倒された私は、自分がどこにいようと関係ないと考え、足の赴くまま従いました。
規則正しく、等間隔で立つ墓石を横目に歩いて行くと人ひとりが入れるほどの小さな小屋がありました。
外から覗いて見ると、そこにはお地蔵さま。
頭上の額には般若心境がありました。
当然かもしれませんが、綺麗な花がお供えされており、きちんと綺麗に管理されているのがわかります。
私はひざまずき、手を合わせてご挨拶しました。
このお地蔵さまがいつからここにあったものかはわかりませんが、おそらくは長きに渡ってこの静かな霊園を見守り続けているのでしょう。
あなたがいれば、安心ですね。
心の中でもう一度一礼をすると、お地蔵さまの小屋をでました。
出てすぐ左側にならんだ墓石を目をやると、なにやら他とは違う違和感を覚えました。
違和感の正体は、ある墓石にありました。
『軍曹ヘルマン・ゴルの墓』
正直、ギョッとしました。
日本陸軍の墓地の中に、唐突に現れた横文字の名前。
つまり、外国人の墓です。
どういうことなのかと、調べてみると納得しました。
このブロックには、軍役夫の他に敵国の捕虜の墓もあったのです。
他国にもこのようにして、日本人捕虜のお墓が存在するのでしょうか。
ヘルマン氏の墓石を見つめながら、私は言い表せない複雑な気持ちになりました。
なにしろ100年以上前の戦争。
太平洋戦争時のように、相手国の兵士に憎悪の念はなかったのでしょうか。
そして彼はどんな最後を遂げたのでしょうか。
なによりも、彼は日本のこの地でこうして墓を建てられ眠っていることにどんな思いを抱いているのでしょうか。
そんなことに思いを馳せると、どうにも複雑な気持ちになりました。
戦争とは、こういうことなのかな。
ふとよぎった心のつぶやきを風に運ばせながら、奥へと進みます。
そんな私の後ろ姿は、どんな風にお地蔵さまは見ていたでしょうか。
■倒れてもなお……
正面入り口から真っすぐ奥へ進むと、ちょうど中央付近に沢山の墓石が隙間なく並び、その中央にお地蔵さまの石像が祀られているひな壇のような石碑があります。
よく見ると、並んでいる墓石は墓地内に並んでいるそれと同じもののようでした。
これは『破損墓碑塚』といいます。
太平洋戦争でこの墓地もアメリカ軍からの空襲を受けました。その時に破壊されてしまった墓石をここに集めているとのこと。
そのため、中央に穏やかなお顔で佇むお地蔵さまがこれらの破損した墓石を慰めているということでしょうか。
ここにまとめられている墓石は、形の違うものも混じっており、少なくともこの塚だけは生きていた時の階級や身分など関係なく、並んでいるようです。
ですが、破損したことは残念ですがこうしてひとつのところに集められているところを見ると、なんだか賑やかな感じがします。
まるで学校のような……。
さながら中央のお地蔵さまは引率の先生、というところでしょうか。
今も昔も、兵役に赴き戦死するのはいつだって若者です。
それも20代半ばや後半。30代で戦死した兵士などは長生きした方な気さえします。
これが太平洋戦争になると、学徒出陣で平均年齢がぐっと下がります。
10代後半の少年から青年にもなりきれていないような子供たちが死地へ赴いたのです。
そんな若者たちがこの墓石の数だけ死んだのかと思うと、死んだあとくらいはみんなとなかよくわいわいしてほしいではありませんか。
それをあらわしているかのように、この『破損墓碑塚』は、まるでクラスの集合写真のようです。
物言わぬ墓石のひとつひとつが、個性的に佇み、その笑顔をこっちに向けているような……。
子供が巻き込まれるような悲劇は、もう二度とたくさんですね。
■「生兵」という生きた証
1873年(明治6年)に施行された徴兵令は、多くの若者たちの環境を激変させました。
当時の日本はご想像の通り、今とは違って交通の便も悪く、住宅も昔ながらの瓦、生活は基本的に自給自足の時代。
都心を除いて、ほとんどの地域が田舎然としていました。
大自然の中で自由に育ってきた青年たちは、徴兵令によって徴集され、洋服も着たこともないのに突然軍服を着せられ、のびのびと暮らしてきたこれまでとは真逆な、集団での規則正しい生活、訓練。
その環境の変化についていけないものも沢山いたといいます。
悲しいことですが、中には自ら命を断ったものや、逃げ出そうとして途中で事故などで死んだものが続出しました。
つまり、徴兵検査を合格し訓練が始まったばかりのいわば『訓練生』。
その状態の者を『生兵』と呼んでいたといいます。
若い青年たちが、戦地に赴き国と家族を守るために戦う。
その前に死んでしまった、あまりにも惜しい若き命。
この墓地にはそんな『生兵』の墓も数多く存在します。
ただ、この時代の墓石は140年以上が経ち、形を保っていてもほとんど刻まれた文字は読むことができません。経年劣化のためです。
いつか、きっと風化するかもしれません。
ですが、私たちが戦争を過去としてのものという前提でも学んでいる内はこんな場所こそ大事にしなければならないのではないでしょうか。
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