【連載】めろん。103
・破天荒 32歳 フリーライター㉘
厭な臭いに眩暈がした。
鼻の孔に手をねじこまれ、脳に直接悪臭を押し付けられたような生理的嫌悪感が伴った。一瞬、意識が飛びそうになるほどだったが気力でなんとか押し返す。
この臭いは、この想像を絶する激臭はなんなのか。鼻をつまみ、涙の滲む目を凝らした。
しかし、ドアの向こうに広がっているのはなんの変哲もない作業場だ。ステンレスの作業台に業務用の冷蔵庫、調理器具が壁にぶら下がりごつごつとして重そうな機械がある。どこも汚れておらず、見た目は清潔に見える。
それなのにこの臭いはいったいどこから来るのだろうか。
おそるおそる足を踏み入れてみる。鼻をつまんでいても口で息をするだけで悪臭を体内に採り入れているようで気分が悪い。目もしばしばしてしかめ面になった。
水産の作業場は通ってきたので、おそらく精肉の作業場だろうか。そう思って見てみると重々しい鉄製の機械が精肉に使うもののような気がしてくる。
実物を見たことがないので確証はないが、ミンチを精製する肉挽き機にも思えてきた。冷蔵庫を開けてみれば一目瞭然だと思い、音を立てないように業務用冷蔵庫のステンレスドアを開けた。
「いやああ!」
声を出してはだめだとわかっていたはずなのに、瞬間、理性が吹っ飛んだ。これ以上悲鳴を上げないよう自分で自分の口を塞ぎながらあとずさりする。
冷蔵庫にはいくつもの人の首が入っていた。手や足、胴体などの他の部位はなくひたすらに頭だけが冷蔵庫の中に並んでいる。老若男女バラバラの人間の頭……青い顔の頭だ。
「ううっ! ううぅ……!」
抑えようとしても無理だった。そのかわり口を塞ぐ手で強く押える。この声が漏れないよう、必死で押えた。だくだくと涙が流れ、鼻水とよだれで手のひらはぐしょぐしょだ。
青い頭たちはみんな目が開いていた。決して私と目が合うことはないが、暗い冷蔵庫の中でも瞳に生気がないことはわかる。同時にそれが玩具などではないことも。
これはメロンだ。彼らが客をもてなすためのメロンなのだ。
バタム、と勝手に冷蔵庫のドアが閉まった。
ガクガクと膝が笑い、その場から動けなかった。そして、この激臭の正体が血と内蔵と肉の臭いだとわかった。どれだけ見た目を綺麗にしていても、こびりついた脂と血の臭いまでは落とせないらしい。いや、もしかすると誰も気づいていないのかもしれない。メロン罹患者ならばむしろ食欲をそそるいい香りである可能性すら高いのだ。
ここで人を解体して食べ……っ!
「うぷっ、おえ……」
胃のものが逆流し、喉まで上がってくる。口を押えたままそれを押し返すようにして飲んだ。拒絶感に涙を流し、鼻に酸い臭いが突き抜け脳天に串を刺されたような刺激が走った。
考えすぎだと思いたかった。
ここはただの精肉の作業場だと思い込みたかった。あの頭も誰かの質の悪いいたずらで、全部偽物なのだ。そんなわけがない。
バックヤードから離れたこんな奥まった場所にわざわざこんな作業場を作るわけがないのだ。ただの精肉部であるとするなら。売り場からも遠いし、ここには食肉を小分けにするトレイも見当たらない。つまりここはメロン罹患者専用の精肉加工場。いや、ひとりの人間を複数の罹患者で食うとは考えられない。
めろんの保管と加工、腹いっぱい食った残りは……
猛烈に厭な予感がした。残りは……どうするんだ? 一体、どこへ。
捨てていると思った。それしかない。おそらく殺した本人しかここで解体した肉は食わない。ほかの罹患者が食うとその時点で彼らはゲームオーバーだ。ほかのものを食えなくなり、そのまま飢えて死ぬ。
では罹患者でなければ?
つまり……残りの肉をここで加工して……
作業場にある肉挽き機や加工機を見る。綺麗に拭き取っているが、刃や細かなところに小さな肉片や脂がこびりついているのが見えた。
おそるおそる冷蔵庫を開ける。あのおぞましい光景を拝むなんて二度とごめんだが、どうしても確かめたいことがあった。
「ない……やっぱり、頭以外……」
冷蔵庫に並んでいる頭は5つ、五人分だ。どれも大人のものだが頭以外の肉はない。ほかのドアも開けてみたが空だった。
もしも捨てていないのだとすれば不自然だ。
考えすぎだと思いたかった。危険を顧みず、それを確かめるのはばかげていると思った。それを知ったところで、誰になんの得があるというのだ。
そう思いながら私は作業場を出て、もうひとつのドアが外にでるものだと確認し、コの字に曲がる奥の角を曲がった。思った通り店内に出る扉があって、弘原海はここから入ったはずだ。私の考えが正しければ、この通り沿いに精肉部門の作業場があるはず。
「あー……ダメです。それ以上は行かないほうがいい」
弘原海の声だった。
「弘原海さん、ここに出しているお肉って……」
「知らなくていいことは知らなくていいんですよ、雨宮さん」
「み、みんなここのお肉を……食べ……」
「大体の住民は知っていますよ。だがほとんどの場合、食べてしまったあとに知るんです。だからね、ここのみんなは極端に干渉したがらない。誰もがみんな共食い鬼ですから」
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