【夜葬】 病の章 -2-
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道に出るまでの間、鉄二は何度も後ろを振り返った。
もはや陽の光をあてに出来ない。沈みかけていた太陽からは弱弱しい橙が間接照明のように山から漏れているだけだ。
それ以外の色と言えば、黒に近い藍色。
その色を目の当たりにして、真の暗闇とはもしかすると漆黒などではなく、少し青みのかかった深い藍色なのではないかと思った。
村の者は追ってこない。
だが闇は鉄二を覆うほどに迫ってくる。
この闇こそ、あの村の者たちの本体ではないか。そのように鉄二が錯覚するのも無理はなかった。
葉や枝、虫と闇。
それらを手で払いながら、悪夢の道を往く。
「違う、この先には……この先には希望が!」
希望を求める人間の顔とは、こんなにも鬼気迫るものなのだろうか。
そう思わせるほどに鉄二の形相は凄まじかった。
いや、この形相を正しく形容するのならやはり『逃げ惑うものの顔』だ。
なにか恐ろしいものから逃げる必死な表情。
希望を求めているなどおこがましい姿である。
その証拠に鉄二は一人息子を村に置いてきたのだ。
【あの祭りが行われる村に、なによりひとりにしてはならない子供を】
「早く、早く山を下りないと……山を……!」
もはや彼の頭の中では、村に置いてきた息子のことなど微塵もない。
一刻も早く、この闇から。あの村から逃れることしか考えていなかった。
※※※
「父ちゃん、白飯の匂いする」
「そうだな、いい匂いだなぁ」
母親を結核で亡くした黒川家には、まだ八歳の鉄二と父親の元(はじめ)だけが残された。
貧しかった黒川が男手ひとりで鉄二を育てるのは無理があり、先逝した妻が生まれ育った鈍振村を頼るのは仕方のないことだった。
理由は違えど奇しくもその一五年後に鉄二も子育てに困って村に帰ってくるが、黒川親子が鈍振村に移ったのは一九三七年。
日中戦争の引き金になった蘆溝橋事件が勃発した七月七日だった。
元に手を引かれ、山道を長く長く歩き続けて辿り着いた村で二人がまず感じたのは、炊きあがった白米の香り。
ここへ来るまでなにも口にしていなかった二人は、その匂いにおのずと腹が鳴り、ねちょりとした生唾が喉に張り付いた。
匂いに釣られてる二人は文字通り、餌の付いた釣り針に吸い寄せられる魚のように白米の匂いを追った。
家屋がいくつか密集した小さな村。その奥に石垣が覗いている。
注意深く見れば、時折人が行き来していて、白米の香りはどうやらそこから漂ってきているようだった。
二人が近寄ると、白米の香りに混じって線香の香りがするのに気づく。
おそらく最初からこの二つの香りはあったが、空腹を抱えた黒川親子には白米の香りがより強く感じたため、近づくまで気付かなかったのだろう。
「なんだ葬式か?」
「お葬式? 母ちゃんの時にしたよ」
鉄二が言うと、元は首を横に振って「母ちゃんのじゃない。わしらの知らん人だろう」と答える。
そのまま、屋敷の前で二人が立ち止まって見ていると、中から一人の村人が出てきた。
「おや? なんだあんたら余所者か?」
人懐っこい顔つきをしている男だったが、二人を村の者ではないと悟ると眉間に皺を寄せ懐疑的な目を向けた。
「ああ、わしらはこの村の者じゃない。だが、死んだ女房がこの村で生まれ育ったと言っていた。情けない話だが、子供を預ける親戚も近所づきあいもないし、仕事もない。どうしようもなくて女房の村を頼ってやってきたんだ」
「鈍振村で生まれ育った女ぁ?」
男はじろじろと元と鉄二を見ると、手元に持っていた包みを隠すように胸元に抱いた。
「ちょっと待ってろ」
そう言って中にいる誰かを呼びに行った。
待っている間、二人はイヤでも鼻腔に忍び込んでくる白米の匂いに眩暈がしそうになりながらも耐えた。
屋敷の奥から読経が聞こえている。
「やっぱり葬式みたいだな。それにしても変わった経を詠んでる」
「父ちゃんも知らないお経?」
元の耳に入ってくるそのお経は、元が知らないものだった。
しかし、元にとっても様々な流派のお経を知っているわけではない。
集落などで見られる独自の宗教に基づいたものだろうと結論づける。
「お腹減った……」
だがそんなことよりも目下空腹のことのほうが彼らにとって深刻だった。
「我慢しろ鉄二。落ち着いたらなにか食べ物をもらってきてやるから」
「うん……」
そうは言ったものの、幼い鉄二は激しい空腹の最中に白米の香りが漂う状況が耐えがたかった。
しかし鉄二は父に迷惑をかけまいと幼心に思っていたにも関わらず、どうしても我慢できずその場にうずくまってしまった。
「鉄二! 情けない真似をするな! ほら、立て」
「うん……でも、父ちゃん。僕、立てない」
大粒の涙が鉄二の頬を伝う。気持ちと体がどうしてもズレてしまい、思うように動かないのだ。
「いい加減にしろ! ここで村の人たちに気に入られなかったら……」
鉄二を叱ろうと元が手を伸ばした時、さきほどの男が数人の村民を連れて戻ってきた。
「おお、おお、なにしとるんじゃ。腹減ってる子供を無理に叱るんじゃないぞ」
やってきた男たちのひとりが、心配そうに声をかけ元が叱ろうとするのをやめさせた。
元が「どうも恥ずかしいところを」とバツが悪そうに振り返ると、そこには白髪の老人男性がいた。
「なんでも、この村出身の女が女房だと言っているらしいが」
「そうなんですが、女房はこの間結核でおっ死んじまいまして」
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