【夜葬】 病の章 -69-
「顔がなくなるなんて聞いていない!」
人気のない夜の鈍振神社に、五月女の悲痛な叫びが鳴り響いた。
「だが夜葬は顔をくり抜くものだ。このノミでな」
家から持ってきたノミを見せ、その刃先を五月女の妻・実久の額にあてがった。
「やめろ! 離れろ!」
半狂乱で五月女は鉄二に飛び掛かり、実久から引き剥がす。
その勢いに鉄二はごろんと後ろに転び、倒れた。
「痛えじゃねえか! なにしやがる!」
「なにをする、はこっちのセリフだ! あくまで実久が生き返るまでの過程だけやればいいんだ! なにも本当に顔をくり抜かなくていいんだよ!」
「顔をくり抜かないと起き上がったりしないんだ、わかるだろうが」
鉄二は嘘を吐いた。
本当は、このまま放って置けば実久はひとりでに起き上がる。顔をくり抜かなくても。
だがそれはもっとも忌避しなければならない。そのために鉄二は自ら手伝いを買って出たのだから。
「だめだ……だめだだめだ! 実久の顔をくりぬく? こんなに愛しい僕の妻の顔を? 顔のない実久が生き返っても意味がないんだよ!」
――顔のある妻が起き上がればあんたの命がないんだよ。
心の中で呟いておきながら、鉄二の口は閉じたままだった。
「落ち着けよ、五月女。この村では顔は神様の借り物なんだ。だからいったん返さなければならない。でも、起き上がってからもう一度顔を入れ直せばいいだろう? そうすれば、傷跡は残るが顔はそのままだ」
野犬が威嚇しているような唸り声をあげ、五月女は葛藤している。
顔をくり抜いて起き上がってきたモノが、本当に実久だといえるのか、という自問と戦っているのだろう。
鉄二にはそれがありありとわかる。
その最中でも鉄二は実久の亡骸を気にした。
いつ【地蔵還り】として起き上がってきてもおかしくはない。早くこの男を納得させ、実久の顔を地蔵に返さなければならなかった。
そうすれば殺人装置としての起き上がりはなくなる。だがもしも地蔵還りとして起き上がったら――。
背筋が粟立ち、ぷつぷつと鳥肌が浮かぶのが見ずともわかる。
だが五月女を催促したり、急がせるようなことをするのは辞めた方がいい。急がば回れ。こういう時ほど、冷静に状況を見極めなければならなかった。
なにしろ、どんな言葉や行動が五月女の逆鱗に触れるかわからない。急ぐからこそ、慎重にならなければならなかった。
「実久……もうちょっと我慢しててくれな。必ず僕が行き返らせてみせるから。その綺麗な顔のままで。僕の大好きな実久」
五月女は慈愛に満ちた優しい声で実久の亡骸に話しかけた。
それを背中で聞きながら、鉄二は五月女のすでに周りが見えていない狂気に脅威を感じていた。
――こりゃあ、あの女が起き上がらなかったとしても俺の身が危ないな。
鉄二の目的は、なにより第一に実久の死体を焼いてしまうこと。強引にそれをするのは五月女の手前難しく、なんとか説き伏せて納得させてから……と思っていた。
夜が深まり、時間が経てば次第に心も落ち着いてくるだろうと思っていたが、鉄二の目測が甘かったようだ。むしろ時間を負うごとに五月女の狂気は増しているようだ。
第一目的が遂行不可能とすると、第二に切り替えなくてはいけない。
二の矢として鉄二が考えていたのは、素直に夜葬やってやることだった。しかし、夜葬を忌み嫌い、特に元の死後、まともに夜葬に参加していなかった鉄二はきちんとした手順を知らない。
数か月前に船坂を夜葬した時は、ゆゆが主導していたので細かなところはわからなかった。それに、人の顔をノミでくり抜く経験はしたことがない。
本音を言えば、自信がなかった。
――だったら、仕方がないか。
できればこれだけはやりたくなかった三つ目の矢。
『実久の亡骸を起き上がりが不可能なほどに破壊し、五月女も殺す』
実久を焼くことを許さない五月女が、実久の体を破壊することを指をくわえて見ているはずがない。気絶させて、その隙にバラバラにしてしまう。という手もあるが、その場合も五月女が目を覚ませば鉄二に危険が及ぶ。
蛇の道は蛇。
三つ目の矢しか策がないとするなら、肚を決めるしかない。
一番最悪なのは、もたもたして実久が【地蔵還り】になってしまうことだ。そうなってしまえば、手が付けられない。
「五月女さん、ちょっといいかい」
あれこれと言い訳をして持ってきていたスコップを両手で構え、鉄二は振り返った。
ザック、ザック
不思議な音が聞こえる。土を掘っている音に似ているが、スコップは今自分の手に握られていた。
灯りのない暗闇の中、しゃがみこんでいる人影がある。
「そのまま嫁さんに話しかけたままでいいから聞いてくれ。話があるんだ」
音の正体は不明だが、それに構ってはいられない。
そろりそろりと五月女に近づき、スコップの刃物のような先端をその背に向けた。
――ん、五月女……じゃない?
若草色と乳白色の横縞模様のポロシャツを着ていたはずの五月女。だが、暗闇の中、狭くなった視界に映っているのはボロボロの着物を着た白髪の後ろ姿だ。
「おかわりありますか」
背をガラスの爪で深く引っかかれたような、痛みと錯覚しそうな寒気が走った。
ザック、ザック
その音は、土を掘っている音でも、スコップの音でもない。
有り得ないが、『五月女の顔から鳴っている』。
その人物は、あおむけに横たわっている五月女の上に乗っかり、顔面にノミを突き立てていた。まるで、どんぶりさんを作っているように。
「テッチャン、ワタシノコト、スキ?」
そう言ってソレは、ゆっくりと振り返った。
まるで似ても似つかない風貌なのに、顔だけが逆さのゆゆが嵌め込まれている。
「ぃぃぃぃぃいいいいいいいひぃいいいいいいいいいっっっっ!」
一目散に、境内から続く階段を転がるように駆け下りてゆく。
鉄二の全身、脳、内臓、筋肉、骨、心臓が全て恐れに支配された。思考は完全に停止しているのに、心臓は飛びだしそうなほど鼓動を打っている。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ。
本能が絶叫する声だけに従い、鉄二はその足のまま、灯りのついた家へと飛び込んだ。
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