【夜葬】 病の章 -35-
鉄二は夜明け前の海に赤ん坊を捨てた。
簡単に布で包み、細縄でぐるぐるに巻いただけでろくな弔いなどせず、ただ崖から投げ捨てた。
小さな命は名前をつけられることもなく、この世に生まれてたったの数日で魂の火を消したのだ。
「前世でよっぽど悪いことしたんだろう。そうでなきゃ、俺のところに来た理由がねえ」
来る途中で拾った煙草の吸殻に火を点け、鉄二はひとり海を見つめていた。
「あの赤ん坊も、俺も、ちっぽけなもんだ。今ここで死んだからっていっても、なんにも変わらねえ。やっぱり俺は戦争で死ぬべきだった」
思い浮かべる十代の頃の日々。
日毎に蓄積されてゆくフラストレーション。吐き出すことのできない世の中への不満。不遇に対する呪い。
そういったものが鉄二を構成していた。
村で大事なものを失くしてから、それらが鉄二という存在の証明だったのだ。
自暴自棄になっていた自分の小ささを改めて海に教えられた気がする。
それのためだけにあの小さな命があったとするならば、感謝するしかなかった。
突然現れた母親の知れぬ子供。あれは、俺のために死んだのだと鉄二は本気で思っていた。
海は穏やかな波をたて、顔の潰れた赤ん坊を連れ去ってゆく。
その日を境に、鉄二は薬物から足を洗った。
それからの鉄二は、真面目に働いた。
彼が就いたのは、市場での荷下ろし。腕も必要とせず、馬鹿でもできるというところが気に入っていた。
青果や鮮魚、精肉を売っている店々を眺めるとそれぞれがそれぞれの仕事を全うし、市場全体が活気づいている。
鉄二はそれをぼーっと眺めるのが好きだった。
だが決してその中の中心になろうなどとは思わない。
いつのまにか、自分があちら側の人間ではないと自覚していたのだ。
薬をやめ、自堕落な生活から脱した鉄二は健康的に太り始めた。
とは言っても末期が骨と皮だけのガリガリの体型だったので、今がちょうどいい成人男性の体つきだと言っていい。
もっとも、腹はでていたが。
慢性的な倦怠感や虚無感も抜け、本来の自分が戻ってきたのだ。
しかし皮肉にも鉄二の中の『本来の自分』というものは、決して活発なものではない。
内向的で無口。人とのコミュニケーションをとることを極端に嫌う。
まさに黒川元の子供。性格までそっくりに育ってしまっていたのだ。
そこに元と美郷の死という村でのトラウマも加わり、これまでは堕落してきた。
薬をやめて、その部分が露出しなくなった代わりに本来の自分がこの町に自分が合っていないということを突きつけてくる。
社会的に復興ムードが高まり、国民の士気が高くなってきたこの時代、鉄二のような引っ込み思案の性格は歓迎されない。
町に出れば自分の居場所があると信じてやってきた鉄二にはやや残酷な現実といえた。
父親である元もそもそも、町と人が苦手で妻の三舟小夏の故郷である鈍振村へ逃げたのだ。
親子が似れば似るほどこのあたりの思考も似通ってくる。
鉄二はいつしか、町にいることそのものに息苦しさを感じていた。
「あんた――」
荷下ろしの仕事を終え、大衆店で安酒を喰らっていた鉄二に女が声をかけてきた。
酔いがまわっていたわけではないが、鉄二はその顔に見覚えがない。
「誰だ、あんた」
ふるふると震え、女はあちこちを見回した。
鉄二は女のその様子を怪訝な顔で見つめている。
「あんた、子供はどうしたんね!」
「子供?」
「そうよ、子供! もう二歳にはなってるはずよ」
鉄二は口元に付けていた猪口を落とした。
ここまで忘れていたこと。
いや、自分で無理矢理忘れようと蓋をしてきたことを思い出したのだ。
「家にいるの? それとも捨てたの?」
「違う、俺はそんな……そんなつもりじゃ」
椅子ごと後ずさり、鉄二は顔を真っ青に染めた。
対照的に女は真っ赤に顔を高揚させ、仁王のような憤怒の表情で鉄二に詰め寄る。
「どこ? どこにいるの!」
「お前、あの赤ん坊の母親か」
「『あの』? 『赤ん坊』……って」
――何故だ。何故、今頃こんな女が来る? こいつはあれを捨てたんじゃないのか? なのに、今頃になってどういうつもりなんだ!
心で思っていても口にだせない。
この二年余り、人と極力接触しない生活をしてきたためか、すぐに声にならず口をパクパクさせるだけだった。
「あんた、まさか――死なせたの?」
鉄二は椅子から転げ落ち、犬のように四つん這いになってぺたぺたと出口を求めた。
そのみっともない怯え方を見て、女は直感が働いたのだろう。
「殺したんね!」
女の叫びを聞いたのは、鉄二の背中だった。
無我夢中で鉄二は店から飛び出し、逃げた。
とにかくがむしゃらに全力で走る。
体力が尽き、倒れ込むまで何も見えず何も聞こえない。
まるで空の中を走っているような感覚に陥った。
見知らぬ雑木林に突っ込むようにして倒れ込み、息も絶え絶えに茂みに隠れた。
外は夜。
真っ暗な夜の帳は、鉄二を闇に溶かした。
目が慣れ、息が整って来た時に鉄二は懐かしみを覚える。
――こんな闇、あの村に比べたら全然明るいじゃないか。
鉄二はこの時、生まれてはじめて村に帰りたいと感じたのだった。
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