【夜葬】 病の章 -56-
赤ん坊……敬介を殺すことに意味を問われればわからないとしか答えようがなかった。
それでも鉄二にはそれこそが自分にかけられた呪いを解く法だと疑わない。
敬介を殺そうとするのは二度目。
一度目は船坂に、二度目は窪田に暗示をかけられた。
子供を……それも赤ん坊を二度も殺そうとするなど狂人以外の何者でもない。
正気にならなければ、まともにならなければ、また自分は子殺しをしてしまう。
「ぷぎゃあ……っ!」
鉄二の右手に柔らかいものを潰す感覚、それに生暖かいなにかを浴びる感覚がよみがえった。
ふと目を落とすと玩具のように目玉が飛びだし、突きたての餅のようにぶよぶよとした血まみれの嬰児がある。
「そうだ。どうせ、どうせ死ぬんだぞ、お前。どうせ、な」
鉄二の声。自分の声。あの時、ひとりで生きていくことすらままならぬ赤子を一方的に殺戮した自分自身の声だった。
暗闇の中で鉄二は自分を見失いかけた。
闇が、夜の暗い闇が鉄二を朦朧とさせ、正気を奪ってゆく。
やめたはずのヒロポンをしたときの感覚。酒と薬で自分が自分でなくなっていくような感覚が鉄二を包んでゆく。
だが酒と薬に溺れていた頃とただひとつ違うのは、そこに快楽がなかった。
恍惚とするほどの気持ちよさがない。
ただ自分が自分でなくなっていく狂気だけがくっきりと輪郭を為し始めていた。
「大丈夫かい。黒川さん」
暗闇の中、鉄二を現実に引き戻したのは皮肉にも敬介を殺そうと画策した張本人・窪田だった。
「赤ん坊を殺したって騒ぎにはならねえさ。だって、舟越ゆゆは赤ん坊の存在を村の人間に隠している。そりゃあ誰だって六年間も赤ん坊のままの子供がいちゃあ気味悪く思うだろう。だからな、子供だけ殺せばいい。黒川さんの話道理ならその赤ん坊――【地蔵還り】はハナから死んでいるんだろ? 死人を殺すのは罪じゃねえさ」
確かにそうだ。
微かに揺らめくろうそくの火のような意識の中で鉄二は呟いた。
しかし、そもそも鉄二が案じているのは罪になるかどうかではない。どんな恐ろしいことが起こるか予想できないことだ。
「やっぱりやめないか。赤ん坊を殺すなんて」
「あんたがどうしてもできないようなら俺がやるさ」
窪田は飄々と言い放った。
――そうか。なにも俺が敬介を殺さなくてもいいのか。だったら、こんなにも気負うこともない。
窪田の言葉は鉄二にとって、相当な気休めとなった。
闇に食われそうになった自我が急激に肚に戻ってくる感覚。生暖かな体温が戻ってくる感じがした。
鉄二の心境を具現化するようにして、目の前にぽつぽつと灯りが見えてきた。
「すっかり暗くなってしまったな。でもちゃんと村に帰ってこれたよ、黒川さん」
鈍振村の灯りを背に振り返る窪田は笑った。
その笑顔に釣られ、鉄二も笑い返す。
――ひとまず家に帰ろう。そして気持ちを整えて……。
「じゃあ、まずさきに赤ん坊を殺しに行こうか」
「えっ……」
心臓が凍り付く。
窪田は笑顔のままで平然と言い放った。
「い、今からか。そんな突然じゃないか」
「馬鹿言うなよ黒川さん。今やるのが一番いいんだ。なにしろ俺たちは“まだ村に帰ってきていない”。つまり誰も俺たちが帰ってきたことを知らないんだ。だから誰も知らない状況の内に赤ん坊を殺し、しばらく時間を置いてから村に戻ればいい。そうすれば赤ん坊が死んだ時間にいなかった俺たちのことなんて誰も疑わない」
もっとも、赤ん坊を殺されたなんてことを知っている人間は舟越ゆゆだけだがね。
窪田は最後にそう付け加えて煙草をくわえた。
「あんたの心配さえ取り除けば、その【どんぶりさん】を掘り返すことだって平気だろう? 俺はあんたのことを信じているさ。信じているからこそ、“夜葬をやめ、福の神が去った鈍振村”にはもう『起き上がり』なんて存在しない。なぜならその最後の存在がね、舟越ゆゆの赤ん坊だから」
窪田の言葉は鉄二の畏れをいちいち払ってゆく。
暗闇で見えづらい窪田の顔が、鉄二には次第に菩薩の類に思えてきた。
「窪田……あんたぁ神様なのかい」
「神様? 馬鹿言うんじゃねえよ。俺はあんたの……」
『友達さ』
夜の鈍振村。
夜、外にでてはならぬという言い伝えは廃れたが、それがなくともそもそも山間の村で外に出歩く者はいない。
畑仕事、農作業の盛んな村の至る所に農具がある。
野菜や穀物を育てるための道具も使いようによっては簡単に人を殺めることができる。ことそれが子供……無抵抗の赤ん坊ならなおさらのことだ。
鉄二の中にある狂気が勇気という前向きな感情に変わっていきつつあった。
これは、自分の人生を。村を変える、善行なのだ。
敬介はそれを阻む諸悪の根源である。間違いなどない。
――神が俺を友達だと言った。俺は神の友人だ。
ならば神に従い、悪を討つのだ。
これまでの自分の罪を清算し、償うために。自分の本当の居場所を作るために。
「こんばんは」
暗闇の外れからの声。
その声を耳に拾ったのと同時に鉄二のそれまで抱いた気持ちが魔物に攫われていく。
去っていったはずの畏れが風と共に舞い戻ってくる。
「これはこれは……“あなたが夜に出歩く”なんてどういう風の吹き回しですか」
窪田の声音に警戒のりんが鳴る。
「そっちこそ、こんな時間なのに畑仕事?」
鉄二と窪田の手には農小屋から拝借した鉈が握られていた。
「害獣がでてね。村に戻る前に黒川さんと一丁退治しとくか、と思って」
答えるその声から緊張が伝わる。
ふぅん、という相槌の声は聞き慣れたはずなのに氷柱のように冷たく尖っていた。
「この子が泣き止まなくて、外の風にあたれば寝るかなぁって」
ふたりの前に暗闇から現れたのは、赤ん坊――敬介を抱いた、ゆゆだった。
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