【夜葬】 病の章 -18-
今すぐこの村を出ようという副嗣の言葉に、美郷は戸惑いを隠せないでいた。
奇しくも、美郷本人が村を出た小夏らを羨んでいた矢先の話。
それを弟の副嗣に見透かされていたのではないかと、気が気でなかったのである。
「村を出るだなんて……そんな」
「姉さんだってうんざりしているだろう? 望みもしない結婚をして、せっかく運よく旦那が死んだっていうのに。それなのに一生独り身でいろって老害が言うんだ。このままじゃ姉さんの人生が滅茶苦茶にされちまうよ!」
「副嗣、やめて。充郎さんが運よく死んだだなんて!」
「なんだよ。姉さんがどんなふうに思っていようと、俺はそう思ったぜ。充郎さんには悪いけど、あの人が死んで、ようやく姉さんが解放されたってね」
「もういいわ。帰って副嗣」
副嗣の充郎に対する謗(そし)りに気分を損ねた美郷が一瞥し背を向ける。
「帰らないんだよ、もう!」
副嗣は美郷の腕を掴み、強引に引き寄せた。
思ってもみない弟の行動に驚き、美郷は短い悲鳴を上げる。
「もう帰らない。この村を出て、二度と戻らない! な、姉さん。一緒に出よう」
まるで恋人を攫いに来たかのような口ぶりだった。
しかし、当の副嗣は実の姉に対しそのような感情はない。
ただ、姉の境遇を大義名分にして村を出るための理由が欲しかったのだ。
「なんでそんなに村から出たいのよ! 一体、あなたになにがあったの」
「なんでって? バカな質問だなぁ姉さん。俺は前々からずっと思っていたよ。こんな世間から爪弾きにされたところになんかいたくないって。知っているかい? 外で今なにが起きているか。志那と日本がドンパチやってるってこととか、ドイツがイギリスに宣戦布告したとか……。そんなの、この村にいたらなんにも耳に入らない」
「志那? ドイツ? それって戦争の話? 副嗣、あなたどこからそんな話を聞いてきたの?」
「黒川さんさ。あの人はたまに山を下りて情報を仕入れてるからね。船頭さんや一部の人たちにその情報を教えてる。黒川さんは言っていたよ。放っておいてもいずれこの村にも憲兵がやってきて、俺や他の若い連中は兵役に就かされる。けど俺は国のために戦うならむしろ志願したいくらいなんだ。だがこの村にいたらそれだって一歩人より遅れるってことだろ? だったら俺は町に出て誰よりも先に軍に入って一旗上げたい。そしてこんな村なんかおさらばするんだ」
さも夢を語る少年のように純粋な瞳で、副嗣は美郷の腕を掴んだまま話した。
言っている内容はこの時代の若者として、別段特別なものではなかったがその内容よりも美郷は副嗣の情報源について衝撃を受けていた。
「元さんが、あなたに……」
「元さん?」
美郷がつい口走った名前に、副嗣が反応した。
自分の失態に気が付いた美郷は反射的に口元を押さえ、副嗣から目を背ける。
「元さんって、黒川さんのことだよな姉さん。どういうことだよ……なんで姉さんが黒川さんのことをそんな呼び方するんだ。それじゃまるで……」
そこまで言ったところで、美郷が口走った「元さん」という呼び名の真意を悟った。
「まさか。まさか、そういうことかよ。姉さん!」
「ち、違うの副嗣! 姉さんは……」
美郷の弁明にも解さず、強く腕を引くと副嗣は姉の頬を打った。
ばちん、という鞭打の如き音と共に倒れ込むと、美郷は無言で頬に手を当てる。
「なんてことだ……。それじゃ充郎さんを裏切ってるじゃないか。俺は姉さんが充郎さんの死に縛られ続けるのが耐えられなかった。だから一緒に山を下りようと思ったのに……。
俺は、姉さんにこの村の外で第二の人生を歩んでほしかったのに! なのにあんな余所者に心を許すなんて!」
「違う、元さんはそんな……」
「その名で呼ぶな! この……この淫売が!」
一度、焚きつけられた怒りは熱を増し、憎悪にも似た激情に副嗣を変容させた。
その証拠に副嗣は、愛する姉の顔面に蹴りを見舞い、あろうことか『淫売』という罵声まで浴びせたのだ。
村の老人たちからは理解されず、それでも外の世界を求めた若者。
そして唯一の家族からの裏切り。
美郷が副嗣を裏切ったつもりなど一寸もないが、彼はそうは思わなかった。
すべてから見放され、否定された怒り。
そのすべてがいま、無抵抗の実姉に向けられているのである。
「やめて、やめて副嗣……っ!」
「くそっ! くそっ! どいつも、こいつも……」
美郷の悲鳴に副嗣の怒声。
本当ならば村の誰かにこの声が届いたはずだった。
山間の静かな寒村で目立つ音であっても、『夜は一人で出歩かない』という暗黙の掟により、船家宅から漏れる異常に誰も気づかなかったのである。
救いの手が差し伸べられないまま、副嗣の激情はさらに尖り、衝き上がるまま歯止めが利かなくなった。
それはもはや、狂気と言い換えて過言ではない。
「詫びろ……父さんに。母さんに。充郎さんに……」
目を真っ赤に充血させ、口元には唾が粟立っている。
何度も繰り返し暴行を受けた美郷は、倒れ込んだまま動けずにいた。
頬は腫れ、目の周りを青くし、鼻血が顔を伝い土床にシミを作っている。
ここまで痛めつければ、気が済むだろう状態であっても副嗣の怒りは治まらなかった。
「そ、え……つぐ……ごめ……ん、ね」
それでも姉は弟を裏切ってしまったという後ろめたさを、辛うじて声に出した。
彼女が口にした詫びの言葉は本心からのもの。
いつか、ちゃんと弟には話すつもりだった。たった一人の肉親、副嗣には。
ただそれにはまだ時間が必要で、それまでは蜜月の恋でありたかった。
だが悲しくも、今の副嗣にはそれが伝わることはなかった。
「そして、俺に詫びろ!」
美郷の目に、鍬を振りかぶった副嗣の姿が映った。
それが美郷が生きている時に見た、最後の光景になった――。
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