【連載】めろん。5
・玉井 典美 43歳 主婦②
野菜コーナーでたまねぎとセロリ、特売のぶなしめじをカゴに入れ、鮮魚で夫の晩酌のつまみにくぎ煮、精肉で鶏の手羽元と豚のコマ切れ肉。牛乳とシュレッドチーズをカゴに入れたところで玉子を忘れていたことに気づく。
途中の総菜コーナーで茉菜が好きなコロッケを取った。バイキング形式で取る焼き鳥串の甘いタレの匂いが鼻元に漂ってくる。普段ならば食欲を刺激され、ついつい1本や2本……と取ってしまうが、今日はそんな気になれなかった。
焼き鳥だけではない。肉も魚も野菜も乳製品もすべて、食欲どころか気持ち悪ささえ感じる。ボーっとして玉子を素通りしてしまったのも早く店から出たいという気持ちを押し殺していたからだと気づいた。
「早く帰ろう」
やはり体調が芳しくない。夕食の用意をしたら横になろう。
「メロンいかがですか、メロン、あまくておいしいですよ」
玉子売り場の角から声がする。またか、と思う。
うんざりして覗き込んでみると意外なことに幻聴ではなかった。まるまるした網目の皮がお馴染みの……メロンだ。
「いかがですか。このメロン、糖度も高くて、本当においしいんですよ。お値段もお手頃ですし、おすすめですよ」
私の視線に気が付いた店員が笑顔を振りまき、試食用にさいの目に切った果肉を差し出してきた。食欲がない私はそれを遠慮するとひと玉手に取った。
「もうちょっと重いほうがいいわね……」
無意識に口に出した言葉に私はハッとする。もうちょっと重いほうがいいとはなんだ。自分自身が発した意図しない言葉に自問した。
「確かに小ぶりですがその分、甘味とフレッシュさが凝縮されています!」
店員はさらににこやかに売り文句を飛ばした。自分の発した意味不明の言葉と店員の笑顔に耐えられず、ついメロンをカゴに入れ逃げるようにレジに並ぶ。
『あまくておいしい』
「へっ?」
今、男の声が耳元で囁いた。無遠慮に近い声に驚き、振り返るが誰もいない。
「お次のかたどうぞー」
狐につままれたような感覚に陥った私を、アルバイトの若いレジ部員が呼んだ。
「メロンが一点――メロンが一点――、メロン一点、こちら20%割引でございます。メロン一点、メロンが二点――」
頭が痛くなってきた。もはやこれは幻聴と言えるのだろうか。目を閉じ、できるだけ聞かないよう努め、会計が早く終われと念じ続けた。
こんな日は、厭なことが重なるものだ。
スーパーからの帰り道、会いたくない時に限って会いたくない人間にばったり出会う。
娘の同級生の母親。同世代だからか、顔を合わせるとやたらと馴れ馴れしくしゃべりかけてくる。お互い歳を取ってからの子供なので気苦労がどうの。毎回、同じ話題を繰り返すあたり、無理に話そうとしているのではと思うがお構いなしに距離を詰めてくる。
私を見つけて歩みを速めてやってくる様はさながら残飯を見つけた野良犬だ。爛々とした目が気色悪い。
「メロンさ~ん」
誰がメロンか。胸の内の言葉は閉じ込め手を振ってやる。無視することはできない。
「メロン、メロン……メロン?」
これはもう末期だ。もはや相手の話す言葉がメロンとしか聞こえない。だがこの状況において悪いことばかりではなかった。この女の喋っている内容がメロンに隠れてわからない。相手の顔色を窺って言葉を選ぶ必要がないのはストレスが軽い。
ニコニコと笑い、とにかくうなずいておく。
「メロン?」
おっと。明らかになにかを訊いてきた。なんと答えるべきか……。
私はあてずっぽうで「ええ、そうですね」と答えておく。そうすると女は途端に表情を歪めた。
しまった。あてが外れたのか。
「すみません、今日は急ぎますのでまた……」
ならば長居をする理由はない。私は挨拶をし、離れようとした。
「メロンっ」
メロン女は帰ろうとする私の腕をつかみ、なにかを訴えかけてきた。なにやら心配そうな表情を浮かべている。まずそうなメロンだ。どうせなら甘くておいしい、メロンが食べたい。
ああ、そうだ。メロン女にはメロンを与えておけばおとなしくなるだろう。
私はレジ袋から買ったばかりのメロンを取りだすと、メロン女の胸に押し付けてそのまま踵を返す。メロン女は追ってこなかった。
早く帰ってごはんにしないと。家に向かう足取りがより一層早くなる。よだれ。
ああ、よだれだわ。はしたない。お腹が減った。早く、早く食べたいわ。
腕で口元を拭くとべっとりとよだれで袖が濡れた。こんなに食欲が出たのはひさしぶりだ。そうだ、これだ。このところ悩んでいた食欲不振のせいで忘れかけていた。
空腹の喜びを。空腹の切なさを。そして満腹の幸福を。
「どうしよう。なににしよう。献立、なににしよう」
買ったのはたまねぎセロリ……あとは家になにがあったかしら。ああ、もっとさっき買っておけばよかった。
しかし、スーパーに戻る気にはなれない。そんな時間はない。
とにかくおいしく食べてあげないと。あの人が帰ったら、メロンもだしてあげないと。「待っててね!」
たまらず私は帰り道で叫んだ。
驚いた通行人……女学生や犬を散歩していた老人が振り返る。どちらとも怪訝な顔だった。まるで変人を見るような、触れモノを扱うような目。
確かに叫んでしまったが、そんなに変なことを言っただろうか。
どうでもいい。早く家に帰りたい。
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