【夜葬】 病の章 -60-
「バカ、声を出すな」
「あぶ、あぶ」
実年齢六歳の赤ん坊は鉄二の言うことになど従うはずもなく、なにかを求めるように両手を突き出すと宙を掻いた。
「わかってる、わかってるよ。腹が減っているんだろう」
嘆息し、啓介を抱き上げ膝の上に乗せる。
そして啓介の顔の高さまで右腕を上げると親指を立てた。
立てた親指には細くちぎった布が何重にも巻かれており、鉄二は自らをほどいてゆく。
布が解かれ、露出した親指は極端に細い。よく見れば先端に切り傷がある。
その切り傷は細い指先とは塩梅が悪いほど、腫れており中の肉が盛り上がっていた。
見るからに傷自体は新しくないが、なぜか回復もしていないようでうっすらと赤く血が滲んでいる。
「うっ」
左手に持ったノミの刃でその傷口を抉るように切りつけ、果実を絞ったように血があふれ出した。
「ほら、飲め」
「あぶ――」
啓介の口にそれを突っ込むと、啓介はうまそうに吸い付く。
その顔を見ながら鉄二は、そろそろ親指の限界を感じていた。
いや、親指が限界ではない。啓介に血を上げすぎて右手自体、調子が悪いのだ。
親指がダメになったら次は人差し指で。と簡単にはいかない。
順序的には次は左手ということになる。鉄二は無意識にノミを持った左手を見た。
「んぐ、んぐ」
乳首に吸い付くか如く、啓介は親指に吸い付き血を飲む啓介の姿と交互に見比べる。
――吸血鬼か。なんなんだお前は。
思えばゆゆには乳首がなかった。乳から直接血をやっていたのだ。
いつも白い顔をしていたのは、慢性的に血が足りていなかったからなのかもしれない。
「お前のせいで俺は死にかけだ」
喋るはずのない赤ん坊に話しかけ、鉄二は深いため息を吐いた。
窪田が――いや、鉄二がゆゆを殺したあの晩、姿を消した啓介はみつからなかった。
「まあいい。六歳児とはいえ赤ん坊。化け物だとしてもあんなちびこいのがひとりで生き延びられるとは思えないからな。それに――」
窪田は自らの両手と体を見た後、鉄二にも目を向けた。
「お互いこんな血で汚れた恰好で出歩いて村の人間に見つかるわけにはいかない。悪いがあんたの家に連れて行ってくれ。風呂と服を貸してほしい」
ゆゆの亡骸も赤ん坊の啓介も獣がどうにかしてくれるさ、と血にまみれた恰好のまま窪田は笑った。
「それにしてもこの女が突然目の前に現れた時はどうなるかと思ったがね。順序はあべこべになったが、無事殺せてよかった」
これであんたも晴れて自由の身だ。おめでとう。
窪田はそういって豪快に笑うと鉄二の背を強く叩いた。
鉄二はこんな状況で笑える窪田の神経が理解できず、無言でうなずくのが精いっぱいだった。
無心状態の鉄二は素直に窪田の言うことに従い、家に入れた。
ゆゆと暮らしていた家はまだ生活の残り香があった。さっきまでゆゆは生きていたのだから当然なのだが、ふたりが村に戻ってきたことを隠すにはちょうど良かった。
風呂を沸かしても湯気で怪しまれる心配はない。
明るいところで見ると、窪田の恰好はまさに狂気じみていて、鉄二は思わず息を呑んだ。
鉄二と違い、首から上は奇麗だがその下がひどい。
もとより黄ばんでいたシャツも、地図を描いたと思うほど大きな血のシミだらけ。両手の赤さもおぞましさを感じさせる。
なによりもその赤いシミは全部、ゆゆのものだと思うだけで鉄二は胃の中のものがこみ上げてくる。
「……風呂、用意してくる」
その姿を直視していられなくなった鉄二が風呂場に向かうと、背中の向こうから窪田の鼻歌が聴こえた。美空ひばりだ。
鉄二はその時、はっきりとわかった。
ゆゆを殺しても、窪田を殺しても、どちらにせよ自分は恐怖からは逃れられない。
理由は簡単だった。
鉄二は、ゆゆも窪田も恐ろしい。理解のできない、得体の知れない化け物なのは窪田も同じだと思った。
ゆゆの家には風呂釜があった。経済発展の真っ最中の時代、庶民の家にも風呂は普及していたがここは山の中の村である。
鈍振村で風呂釜のある家は数えるほどしかなかった。船越の家は、そんな珍しい風呂がある家だった。
そのおかげで血を洗い流すことができることはありがたいが、今はこの家のいかなるものもゆゆの面影が付きまとい、鉄二を陰鬱な気分にさせる。
『あぶ……』
ふと、風呂釜の中でなにかが聞こえた。
なにか動物でも入り込んでしまったのかと思ったが、間を空けて再び「あぶ……」という鳴き声を聞いて思いとどまった。まるで、動物だと思った鉄二に「違う」と言っているようなタイミングで。
風呂釜の蓋を掴み、鉄二は深呼吸をする。
そしておそるおそる、蓋を外し釜の中を覗き込んだ。
「あぶ、あぶ」
「うわあああ!」
風呂釜の中にいたのは、啓介だった。
誰かが誰もいない家に忍び込み、啓介を抱きかかえてここに入れたのか……と鉄二は咄嗟に思ったが、啓介の両手と両足の先が土で汚れている。
「ま、まさか……自力でここまで……」
『黒川さん、どうした!』
奥で鉄二の叫び声を聞いた窪田が走ってくる声。
慌てて釜の蓋を閉じると鉄二はやってきた窪田に向き直った。
「す、すまん。百足がいたんだ……気づかない内に足元にいて、思わず」
「百足? なんだ黒川さん、驚かさないでくれ。俺らの声を他の村人に聞かれたらどうする」
「気を付けるよ」
風呂場を去りながら、窪田は自分も田舎の虫は嫌いだと同調してみせた。
平静を装いつつも、鉄二の心臓は胸を突き破りそうなほどに高鳴っていた。
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