【連載】めろん。106
・綾田広志 38歳 刑事㊳
蛙子と付き合っていた時のことを思い出す。
あいつはサバサバしているように見えて実は気を遣う性格をしていた。食事の話になると必ず「なんでもいい」と答える俺に対し、蛙子はあれこれと候補を挙げつつ「この中でいうとどれの気分?」と訊き返してくる。
あくまで自分が食べたいものだとしながら、そのラインナップは俺が好むものばかり。その中にあいつの趣味のものはほとんどなかった。
だがそれを指摘するのは野暮すぎる。俺は気づいているくせに、それでも「なんでもいい」と答えるのだ。そうすれば最終的に蛙子が食べたい店に行かざるを得ない。
それでいいと思っていた。男女の関係などというものは、そうやって成立すると。
だがそれは人による、ということを俺はわかっていなかった。
ずっとあいつの期待に応えないまま、自分の主張をせず彼女任せにしてきたのだ。
なにも決めず、判断を人任せにするいい加減な男。
最終的に俺はそういう男になっていた。蛙子のは気遣いで俺のは無関心だ。それを吐きつけられた時にはもう手遅れだった。
確固たる別れの決意をもち、蛙子は俺の前から去った。
無論、店選びのことが別れのきっかけになったのではない。だが蓄積し続けた不満が影響しなかったかと言われればそれもそうではない。
様々なすれ違いが、互いを「大人だから」という言い訳で放置されすぎたのだ。
子供と大人との決定的な違いは、大人は間違いに気づかないということだと思う。それを正すものがいなければ、しかりつけるものがいなければ大人はそのままどうしようもないまま形成され、気づけば手が付けられなくなっているのだ。
子供のころは大人がその役を担っていた。だが大人は?
間違ったままならば誰が修正するのだ。結局自分自身で気づかなければいけない。
誰かと一緒に過ごすということはそういうことだ。
恥も照れも気遣いも、言葉にしなければ伝わらないのは子供の時からなんら変わらない。俺たちはあの時、素直にそうしていれば別れなくとも済んだのかもしれない。
その後結婚したが結局破綻した。
俺は変わっていなかったからだ。明日佳というかけがえのない存在を前にしても、本音を言わないのが正しいと信じ続けていた。いや、いまさら自分をさらけ出すのが怖ろしかったのだ。
結局のところ、俺はただの怖がりだ。
今だって、お前を失うのが怖ろしくて外に出るしかなかった。お前を救うことより、お前の変わり果てた姿を見る前に、どうしようもない事実を吐きつけられる前に、あわよくばめろんの連中に殺されまいか。
自殺願望ではない。諦観でもない。希望はある。
だが長年培ってきた刑事の本音が「生きているはずがない」と俺を言い聞かせてくるのだ。場数を踏んでいるからこその推察、体に染みついた思考だ。これを無視して忌望だけを頼りに捜索するというのは虫が良すぎる話だ。
そんな刑事の俺が冷淡に言い放つ言葉に耳を塞ぎ、蛙子を捜した。
別れたまま会わなければこんな目に遭わずに済んだのに。後悔だらけの胸を押え、無理に希望に耳を傾ける。
「……なんだあれは」
夜空が赤く染まっている。
わが目を疑うが現実だった。めろん村のある場所が赤く光り……もうもうと煙が立ち上っている。
「火事か」
通常なら今頃消防車がサイレンを鳴らして駆けつけている頃だが、この町ではそうもいかない。あれだけ炎が上がっていても駆けつけられる人員が間に合っていない。
だがある意味でチャンスだと思った。
あの火事を蛙子が見ていないわけがない。あいつが無事ならば様子を見に来るはずだ。
俺は走った。赤い炎の空に向かって。
だが近づいていくにつれ、違う種類の不安が濃くなってゆく。あの炎に蛙子が焼かれていたら?
殺したあと、死体の後始末に困って家に火を点けるのはよくある話だ。それに指名手配を受けているのだから、集団に囲まれあぶり出しにあっているのかもしれない。
仮にそうだとすればまだ希望はある。火から逃れて出てきた蛙子を住民が捕獲しているとすれば話は早い。両間の名前を出せばおとなしく引き渡すはずだ。
不安は拭えないが期待が膨らんだ。複雑な気持ちのまま、火事の家にやってくると人だかりができていた。人をかき分け蛙子の姿を捜したが見当たらない。
「この火事で死人はでたのか」
「さあね、でもこの家にいたなら生きていられないでしょうね」
そばにいた女に聞くが思った通りの解答だった。その他にも数人訊いたが同じ答えだ。
つまり誰も「死んだ」と確証を持っていないということだ。
生きている。
町にでてきてはじめて、強く感じた。蛙子はこの町のどこかで身を隠している。あいつもどこかで自分が狙われていることを知ったのだ。
そして坂口も死んだ……。ひとりで息を潜めて理沙たちを想っているに違いなかった。
待っていろよ蛙子。今度は正直に言うからな。
お前が生きていてよかった……と。
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