【蔵出し短編】アキレス健太郎 3
佐竹がいなくなってから当番の日まではあっという間だった。
余計なことを考えないように努め、仕事に励んだ結果、体感時間がバカになってしまったらしい。どこかでこの日が早く終わればいいと思っていたのも一因としてあった。
当番当日の朝、普段通りに出勤するがすぐに誰もいない異様さに打ちのめされそうになった。
各施設の建物がまるで眠っている巨像のようだ。物音を立てればたちまち怒り狂い、踏み潰されてしまうような……理屈ではない緊張が立ち込めている。
思えば休館した職場にくるのは初めてだ。職員用の入り口で立ちすくんだ。
普段なら、体育館はシューズの底がイルカの鳴き声のような音を立て、ボールが跳ねる音で躍動していた。道場からは野太い声が喝を入れ、畳を擦る音や竹刀の軽快な打撃音が響く。外では競技場やテニスコートから絶え間なく笛や掛け声、足音が聞こえた。
それなのにどうだ。ここは完全に音を置き去りにした異空間だ。
どれだけ歩いても人っ子ひとりいない。足音も声もない。どの施設も扉は固く閉ざされ、外界との接点を拒んでいる。
すぐに後悔が襲った。もしやぼくは取り返しのつかないことを引き受けてしまったのだろうか。
職員事務所に行くとすでに三浦は出勤していた。
挨拶を交わすとデスクにつく。掛け時計の秒針の音だけが無言の室内に居座っている。ふと壁にかけたカレンダーが目に入った。
13日の金曜日――
改めて見直すとバカみたいな字面だ。声にだすとさらにバカバカしくなる。
映画以外で、この日が気味悪く思う日がくるだなんて思ってもみなかった。
「まず10時、そのあと12時と15時、17時に巡回だ。点検と保守も併せてこなすからな」
「あ、はい!」
唐突にスケジュールを告げる三浦に驚き、声が裏返りそうになった。
「夜の巡回は20時と22時。あとは自由だ。テレビを観るなり本を読むなり好きにしろ」
加えて三浦は手が空いている時も基本的に自由にしていいと言った。
「0時以降は回らなくていいんですか」
「深夜の義務はない。夜は寝てろ」
そう答えると三浦は立ち上がり、デスクに見慣れない手のひら大の端末を置いた。
「無線だ。警備から借りた」
「警備から……ですか」
そういえば警備はいないのだろうか。
「13日の金曜日に部外者を入れるわけにいかない。例え警備の人間でもあってもな」
いよいよわからなくなった。例えば警備でもこの日だけは立ち入らせるわけにはいかない?
ならばなぜぼくたちは例外扱いなのか。
「気になることはあるだろうが、俺には聞くなよ。話せば気付かれるからな」
三浦が釘を刺した瞬間、目からまた光が無くなる。背筋に寒気が走った。
そしてひと呼吸し、三浦は改めて念を押した。競技場には近づくな、と。
「……スタジアムのことですよね」
三浦は認めた。
ぼくは覚えている。佐竹もあの日、『13日の金曜日に休業にしているのはスタジアムに誰も近づけないためだ』と言っていた。
胸がざわつく。間違いない、競技場に決定的ななにかがある。しかも、13日の金曜日だけに。
10時――、最初の巡回。
初回はふたりで周り、次回からは半周ずつふたりで回ることになった。こうすることで時間短縮になるし、効率的だからということだった。
なにかあれば無線で報告する。特に戸締りには注意を払うこと。そして、競技場には近づかないこと。これらがルールとして強く念を押された。
「競技場に誰かが侵入した場合はどうすればいいんですか」
「無視しろ」
耳を疑った。今、無視しろと言ったのか。
「もしそんな事態になったとしたら、無線で報告だけすればいい。あとは放っておけ」
「それじゃあ巡回の意味がないじゃないですか!」
「ある。極力競技場に人を近づけないことだ。最善を尽くした結果、誰かが入ってしまったのならばそれは仕方ない」
ますますわからない。佐竹の時もそうだが、肝心なところを話さないのでなにが危ないのかもわからない。なぜ競技場に人を近づけてはいけないのか。アキレス健太郎とは――
「お前、陸上やってたんだってな」
「ええ、今もやっています。三浦さんはアメフトでしたっけ」
「ラグビーだよ。陸上やってる人間に競技場に近づくな、とは酷かもしれないが我慢しろ。わかったな」
しつこいくらい何度も同じことを言われ、返事をするのも億劫になる。そこまで言われれば近づくはずがない。
「特に陸上となるとな、奴は敏感になる。いくら濡れ手に粟とはいえ主任も人が悪い。よりにもよってお前に当番を回すとは」
「陸上をやってると敏感って、スポーツも関係あるんですか」
「いいから近づくな」
自分から興味を引くようなことを口走っておいて、それはずるい。
不満は募るものの、ここで言い争ってはだめだ。文句のひとつでも言いたくなるのをぐっと堪えた。
そして、なんの異変もトラブルもなく初回の巡回が終わった。三浦の言う通り、競技場だけは避けての巡回だった。
質問の自由を奪われ、ただ気まずいだけの周回だった。
戻って少し早めの昼食を取り、次の巡回に備える。三浦はぼくを監視するようにして一歩たりとも事務所からでようとはしなかった。
永遠とも思える二時間を消化し、12時になった。
ひとりでの巡回だったがさっきとは違い、気が楽だった。
思えば施設内を見て回るなんてことは配属した初日以来のことだ。
普段の仕事は担当が決まっていて、それぞれ毎日同じ場所ばかりにいる。そうでないときは例外なく事務所にいることが多い。
それだけに施設をくまなく回るのは新鮮だった。(といっても半周だが)
とはいえ、人の気配が消えた施設はどれも無機質で不気味だった。
この異様さだけは朝から依然変わらない。どこを歩いても誰もいないから、むしろ施設の外も人間がひとり残らず消えてしまったのではないかと錯覚を起こしてしまう。
休みの日などに部屋にこもりきりで誰とも会わない……ということもたまにある。だがそれとはまるで次元が違う。歪な異世界感がスポーツセンター全体に漂っていた。
……これだけ殺風景なら、競技場はさぞかし不気味だろうな。
関心が沸きあがり、興味に変化する。
これが好奇心に名を変えてしまう寸前で頭(ルビ/かぶり)を振った。
「ダメだ。また佐竹さんみたいなことになってしまう」
『なんだ』
「えっ」
振り返る。誰もいないプールサイドにぼくの声が反響した。
今、誰かが返事をしたか?
気のせいかもしれない。いや、気のせいだ。だがやけにはっきり聞こえた気がする。
それも……その声は佐竹に似ていた気さえするのだ。
心臓が高鳴る。まさか、佐竹が?
あり得ない。そんなこと……こんなところにいるわけが。
「誰かいるんですか」
思い切って声にだして訊ねてみた。わんわんと自分の声が反響するだけで返事はない。
やはり気のせいだったらしい。
――が、そうだとわかっても一度高鳴った心臓はすぐには戻らない。
落ち着かない足取りのまま、手は無意識に無線を握っていた。
ちゃぽんっ
「誰だ!」
振り返るが人影はない。鼓動がまた踊り狂う。
目を凝らして異変を探すが、変わったところは見当たらなかった。強いて言うならば、プールの水面に緩やかな波紋が広がっているくらいだ。どこからか水滴が落ちたらしい。
少しの間、息を止めて吐く。神経質になりすぎている自分が情けなかった。
一体、なにに恐れているのだ。それすらも自分でもわからない。
「……さっさと次にいこう」
握りしめた無線機からようやく手を離し、プールをでようとしたところでタオルが落ちているのが目に入った。
「なんだ、誰かの落とし物かな」
もしもそうなら、昨日の内に回収されていなければおかしいがたまたま見落とした可能性もある。
本来なら杜撰な仕事に憤ってもいいくらいだが、今は落ちているタオルに人間臭さを感じてどこか安心した。
だがさっき三浦と周った時にこんなものはあっただろうか。緊張していて自分自身も見落としていたのだろうか。
怪訝に思いつつタオルを拾い上げる。
【真宵坂陸上大会1985】
タオル一杯に印字されている。端には『成田』と持ち主と思しき名前が黒のマジックで手書きされていた。
「1982ってえらく昔だな」
それに【真宵坂陸上大会】という催しも初耳だ。確かに年に一度、真宵坂スポーツセンターを上げて大きなイベントをしているが、そちらは【真宵坂スポーツフェス】という名称だ。
もしかすると現行のスポーツフェスの前身にあたるものかもしれない。
色々と考えながらタオルを回収した。
『こちら三浦、聞こえるか』
突然、三浦から無線が入る。聞こえます、と答えてから通話ボタンを押していないことに気づく。
「は、はい。聞こえます!」
慌てて今度はボタンを押して応答した。
『外周側の多目的トイレが詰まってる。さっきは省略したからわからなかったが、おそらく昨日誰かがいたずらでなにか流したらしい。直すから俺の周回も周ってくれないか』
「わかりました。全部周ればいいですか」
三浦は野球場以外、と指示した。バインダーに挟んだチェックシートを確認する。
外周はテニスコートと駐車場か。
つぶやきつつ、自分もまだすべて周りきっていないことを思いだす。まずは自分の担当から終わらせてから外周につくことに決めた。
本館は小規模なレクリエーションルームや、記念館、資料館などがある。事務所があるのも本館だった。
真宵坂スポーツセンターは二十年ほど前にリニューアル工事をして外見こそ綺麗に生まれ変わったが、その歴史自体は古い。創設は昭和三十年代だと聞いている。
アマチュア時代にここを利用していた著名人も幾人かいるらしく、設立五十周年と併せて館内に記念館と資料館が作られた。
ここに関しては普段からひと気は少ない。そのためあまり違和感は感じなかったものの、ユニフォームを着た人型模型などはやはり見た目に怖い。
トロフィーや当時の写真、道具や旧体育館の支柱などの展示を横目に異常がないか見回った。
視界の端でキラリとなにかが光り、反射的に振り返る。
意匠が派手な古いデザインのメダルだった。近づいてよく見てみると、くすんでいるが金メダルのようだ。黄ばんだ帯が歴史を感じさせる。
すぐそばのプレートには聞き慣れない陸上大会の名称と寄贈した人物の名前がある。
【成田健太郎】
「成田……」
見覚えのある名前だった。どこで見たか一瞬考えたがすぐにプールで拾ったタオルだと気づく。
確かめてみるとやはり【成田】と書いてあった。
「どんな偶然だよ。気味悪ィ……」
タオルには成田とだけしか書いていない。万が一にもこのメダルの持ち主ではないことは明らかだったが、奇妙な符号に複雑な気分になる。
それに健太郎という名前も胸をざわつかせた。
アキレス健太郎って、これのことじゃないよな。
目を逸らそうとするが関心がこれを許さなかった。一度気になってしまうとどうしても思考から拭いきれない。
メダルのそばに当時の新聞記事があった。
【成田健太郎、悲願の優勝 故郷に錦飾る】
記事の内容は幾度の足の怪我を乗り越え、奇跡の走りをしたと称えるものだった。
……足の怪我?
脳裏を霞めるアキレス腱のイメージ。待て、そんなにも都合のいい解釈があるわけがない。
だが一方で三浦は言っていた。
――『この施設の至る所に痕跡があるんだよ』
もしもこれが彼の言う痕跡だとしたら。
厭な予感がした。ここに留まるのが急に不安になり、足早に立ち去ろうとしたがふと気になるものが目に入った。
【真宵坂陸上大会1982】
展示用ガラスの奥に飾られた一メートル幅ほどの旗に印字された文字に息が止まった。
プレートにはぼくが推察した通り、現在は真宵坂スポーツフェスに改称されたと書いてある。だがそんなことは些細なことだった。
旗には所狭しとマジックで名前が書かれてある。恐らく選手や関係者によるものだろう。その中でもっとも目立つようにでかでかと【成田健太郎】とあった。
恐る恐る脇に抱えたタオルを見る。
心なしかそのタオルは拾った時よりも黄ばんでいるように見えた。そして、ぼくの顔を覗き込むように【成田】と書かれた文字が見える。
「ひっ!」
思わずタオルを投げ捨てた。床に落ち、広がったタオルは明らかにさっきよりも黄ばんでいる。錯覚ではなく突然、古びてしまったとしか思えなかった。
そして、さっきまでなかったはずの赤く汚れたシミ。厭でも血を連想させる。
ぼくは逃げだしていた。
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