【夜葬】 病の章 -74-
男は齢を重ねてようやく学んだ。
結局、目立たず、誰にも気づかれず、興味も持たれないように生活するには真面目に働けばいい。
昔、東京に住んでいた時もまじめにやっておけば問題なく生きていけたはずだ。
今になって後悔してももはや遅いことを男は知っていた。
もう、ことは起こってしまっている。そして、自分は三度逃げ出した。
だがあの村には戻ることは生涯ないだろう。それだけは確固たる決意として胸に帯電している。
「黒川さん。黒川元さん」
「あ、はい」
病院の待合室で男は呼ばれた。その名は、鉄二の父の名。
にもかかわらず男は白々しい顔で立ち上がり、看護婦が呼ぶ病室へ向かった。
「今日は、どうされたんですか」
医者の問診に、男は咳が止まらないと答えた。
このところ、痰の絡む乾いた咳に悩まされていた。理由は考えるまでもない。
彼が努めている工事現場で舞い上がった塵やほこり。これを毎日、日常的に吸い続けたせいだろう。
実際、現場仲間の中にも彼と同じ症状で苦しんでいる者はいる。
「ふむ、一応薬はだしておきますが、完全に治るとは思わないでいただきたい」
「……完全に治らない?」
「そうだね。おそらくその咳は職業柄だろうけど、これにも個人差がある。黒川さんと同じだけ埃や塵を吸ってもなんともない人間もいれば、黒川さんのように激しい咳をする者もいる。要は、向いていないのだと思うよ」
「向いていない? 仕事に?」
「ええ。少なくともしばらくは家で大人しくしていないと、その咳と一生の付き合いになる。今ならまだそうならなくとも済む、ということです」
「仕事をしなければ稼げない。咳を止めるために野垂れ死ね、と?」
「そうは言っていない。けれど考えたほうがいい。なにもその仕事しかできないこともないでしょう」
それが大有りなんだよ。
男は心でつぶやいた。だが口にはださない。いくら言ったところで不毛だと理解しているからだ。
帰り道を辿りながら、処方された薬袋の中を覗く。なんだかんだで病院の薬は効く。
一週間くらいはなんとかだましだましやっていけるだろうと男は思った。
――自分が病めば、五月女の言っていたことはわかるな。
仕事を辞める気はない。
新しい人間と出会うようなことはしたくないのだ。
一体、どこに村の関係者がいるかわからない。あの村に戻るくらいなら死んだほうがマシだ。
『そこまであの村を忌み嫌っているくせに、なぜその名前を名乗った?』
すかさず心の中でもうひとりの自分が問い掛けた。
――うるさい。いい名前が思いつかなかっただけだ。
言い訳。自分自身にするにはお粗末すぎる弁だ。
彼は、父親の名前を名乗っていた。本当の名を黒川鉄二。今は、黒川元と偽名を使っている。
『本当は、誰かに気づいて欲しいんじゃないのか。そうでなければあんな手紙までだして――』
「うるさい」
ひと気のない土手の道で鉄二はひとり、声を荒らげた。
結局、自分が自身に問うことなどどれも図星に変わりない。そうでなければ自己弁護だ。
どちらにせよ建設的な方向に話が向かうはずもない。
向かわないのであれば鉄二の考えそのものが変わるはずもない。
できたばかりのテレビ局に投書をしたのは鉄二だ。それに、宇賀神のいる栃木の新聞屋にも。
わざわざ『黒川元』と署名までして送りつけた。
『素直になれ。お前は罪悪感に圧し潰されそうになっているだけだ。自分が楽になりたいだけなんだろ。村にひとり置き去りにしてきた敬介。【夜葬】の復活で殺された二九人の子供の中に敬介がいたのか知りたいだけなんだ。どうなんだ、おい。お前は『敬介が死んでいてほしい』のか、『敬介が生きていてほしい』のか、どっちだ』
その問いに鉄二は答えられなかった。
乾いた咳がでる。繰り返す。苦しい。涙が滲む。
『そのまま死にたい、とか思っているのだろう? バカな。お前は臆病者だ。死が怖くて仕方ない。なのに死んだ方がマシだ、なんて簡単に吐きやがる。いいか。その咳は、お前を殺さない。その病は治る病で、お前に死を与えるものじゃない。全部、全部全部わかっているのだろう。そうだ、もっと楽になればいい。吐き出せ。自分自身を』
これは暗示だ。惑わされてはいけない。
鉄二は自分の精神が体内で分裂していることを自覚し始めていた。
なにも超常的なものではない。神仏的なものでもない。ただ、過度のストレスによって参ってきていただけのこと。
薬袋から顆粒薬を乱暴に取りだすと中身を口に放り込む。乾いた顆粒が喉の粘膜にまとわりつき余計に咳がでた。
転がるように土手を下り、濁った川の水で薬を流し込んだ。
――あれを……敬介をあのまま村に置いてきてよかったのか。
どうしても鉄二は、敬介が死んだとは思えない。かといって、【夜葬】復活に向けて機運が高まっている村の連中が贄の子供の頭数に敬介を入れないことも考えにくい。
――待て。敬介は普通の子供とは違う。あの成りだが大人以上に饒舌に話すし、あいつの中身は『墓守』だ。御変り病のせいで必要以上に福の神を求めるあいつらのことだ。敬介が我が物顔になにか語れば、たちまち神と崇めるかもしれない。
そして、神を贄にはすまい。
鉄二は川の水でびしょびしょに濡れた顔が、急激に冷えていくのを感じながら沈む太陽を憎らしげに睨みつけていた。
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