【夜葬】 病の章 -7-
鉄二が部屋に入るとお香の匂いが頬や肩に巻き付き、そういえばこの屋敷では今日、葬式が執り行われるのだったと思い出した。
それが頭をよぎるとふと、やはりこの部屋に入るべきではなかったかと後悔しそうになる。
「ほら、ここへお座り」
鉄二が後悔に蝕まれる猶予も与えず、女性は自らの隣に座布団を敷き、ぽんぽんと膨らみを叩いた。
「うん」
素直にそれに従う鉄二が座布団に座ると、女性は約束通りに紙に包んだ飴を差し出した。
「ほら、飴よ」
「わあ、ありがとう」
元と二人で暮らす前から、飴を食べたことなど数えるほどしかない。
もちろん、貧しさも大きな理由の一端ではあったが、男親になってから余計にそう言った菓子に対する頓着が薄くなった。
しかし育ちざかりの鉄二は食べ物には目がない。
ことそれが菓子となると更に顕著となる。
普段は元の目を気にして一挙手一投足に注意をしている鉄二も、この時ばかりは紙に包まれた飴に飛びついた。
「そんなに焦らなくても大丈夫。飴はひとりでにどこかに行ったりしないから」
女性が優しく諭す言葉も聞こえていないかのように、鉄二はやや乱暴に包みを開けると口の中に飴を放り込んだ。
「甘え、甘え!」
「おいしいかい」
「おいしい、おいしいよ、おばちゃん」
優しい笑みを浮かべながら、うんうん、と頷いた女性は鉄二の頭をそっと撫でてやった。
「おばちゃんはここでなにをしているの?」
口の中で飴を舐(ねぶ)りまわし、野鼠が木の実で口を膨らませているような頬で鉄二は一人佇む女性に訊ねた。
「おばちゃんはね、【どんぶりさん】が動き出さないように見張っているんだよ」
「どんぶりさん? どんぶりって、丼鉢のこと?」
『どんぶり』という言葉に、昨日食べたにぎり飯のことを思い出した。
無意識に口の中でよだれが溢れそうになり、鉄二はごくりとのどを鳴らす。
そんな鉄二の質問に女性は「そう」と一言答えると、両手の手のひらで半円を描いて見せた。
「この村ではね、死んだ人のことを【どんぶりさん】って言うんだよ」
「【どんぶりさん?】それはその人の名前?」
女性が口にした【どんぶりさん】という愛嬌のある名前の主を、そばで横たわっている人間なのだと鉄二は直観的に悟った。
其れを指さして訊ねた鉄二に、女性はか細く笑う。
「そうね。そうよ、その人は今はもう【どんぶりさん】。でもね、その人がその人だった時の名前じゃないの」
「その人の……その人が……その人……その人?」
頭の中でこんがらがった鉄二は、言っていることが整理できなかった。
そんな鉄二の様子を見て、女性は鉄二の肩を抱いて横たわっているそれへと近づいた。
「この人の名前は元々『船家充郎』っっていうんだ」
「おばちゃんのお父さん?」
「ううん、おばちゃんのね。旦那さんよ」
暗闇の中でぽぅっとした小さな火。
それを手に取り、女性は横たわる人物の顔近くへと近づけた。
「うひゃあ!」
小さな悲鳴と、ドスンという振動。
鉄二が驚いて思わず尻餅をついたのだ。
「ふふふ、驚いた? ごめんね坊や」
「オ、オバケ! オバケだぁ!」
鉄二が実際、目にしたのはオバケという代物ではなく、どちらかと言えば妖怪に近いものだった。
暗闇の中で布団に横たわる其れとは、白米を山盛りよそられた顔に大きな穴を開けられ人間だったのだ。
だが幼い彼には、見るからにおぞましい其れを『オバケ』としか形容することができない。
それが余計に女性の笑いを誘ったのかも知れなかった。
「な、なんで顔にごはん……」
「言ったでしょう? これは今【どんぶりさん】なんだって」
「怖ぇ……怖ぇよぉ……」
ぐずぐずと鼻水をすすり、ベソをかく鉄二を肩で抱きながら女性はぼんやりと照らす【どんぶりさん】の顔を眺めた。
大丈夫、大丈夫、怖くないよ、と頭を撫でながら優しい声で続ける。
「この人の魂はね、福の神さんに返したところだから。いまごろ極楽浄土へと行くために魂を乗せてゆらりゆらりと空を飛んでいるのよ。だからね、私はここでその船がどこか行ってしまわないように見張ってなくちゃいけないの。充郎さんが極楽浄土に着く朝までね」
恐怖に怯える鉄二とは対照的に、落ち着き払った優しい声と言葉遣いで女性は言った。
もはやそれをまともに聞ける精神状態ではなかった鉄二だったが、どこか母親の匂いがする女性に抱かれて少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……動き出したりしない?」
「ちゃんと見張っていれば動かないわ。心配しないで、坊や」
「うん……おばちゃんがいるなら大丈夫」
心地のいい安心感はやがて眠気になって鉄二を襲う。
恐ろしいものを目の当たりにし、それをなかったものとして認識せず、眠りによって意識を閉ざし、記憶を曖昧なものにする。
これも人間の防衛本能のひとつなのかもしれなかった。
意識が遠のき、眠りの魔物が静かな足音を立てて近づいてくる中、鉄二はふすまの隙間から誰かの声を聞いた。
「お変わり、ありますか」
「……ないです」
口の中で飴玉が甘い唾になってゆくことを幸福に思いながら鉄二は知らない膝の上で深い眠りに落ちた。
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